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2003.3.21
 
 


抗鬱剤の普及…

 日本では年間3万人が自殺に走る。1人の損失を1億円とすると、毎年3兆円が失われている。もしも、自殺予備軍の鬱状態を薬剤で改善できたら、すぐに1兆円規模の効果が得られる。・・・という話をすると、「不謹慎」との強い批判と、ただならぬ不快感が示される。

 世界的に見れば、こうした姿勢は異端に属する。
 例えば代表的な抗鬱剤「Prozac」は、1986年に登場し、現在世界で4000万人が服用していると言われている。ビジネスマンが極く普通に利用する状態なのだ。(http://www.prozac.com/)
 抗鬱剤の効能を、平易な言葉でいえば、憂鬱な気分がなくなり、性格も明るくなる、ということになる。ビジネス用語で述べれば、服用すれば、前向きな態度で考えることができる、となろう。薬で、自分が変わるのである。
 自由な社会なら、こうした薬がヒットするのは当然だ。・・・という言い方をすると、強い反撥を招く。そのように薬を使うべきでない、と諭される。

 性格を変える薬は危険だ、という思想が根強いのである。一見、当然に聞こえるが、この見方はドグマに近い。
 個人責任が重くなれば、生活上の重大問題が発生すると、精神的な重圧感に襲われる。このため、体調が一気に崩れることがある。軽度なら、ストレスによる疲労と見なし回復を待つ。しかし、重度なら、そうはいかない。そこで、この状況を「病気」と見なす。本人にとって納得できる理由がつくから、重圧感から逃れることができる。先進国では、このニーズは急速に高まっている。・・・と語ると、精神科医にかかることが、一種のステータスシンボルでもある西洋と比較するな、と言われてしまう。議論ができない。

 ドグマを信じる人達は、落ち込んでいる人に、平然と「考え方を変えたら」とアドバイスする。そして、投薬は本当の「患者」に限定すべし、と主張する。つまり「患者」は特殊な人なのだ。これでは、重圧感にさいなまれている大勢の人を救うことなどできまい。
 要するに、日本では、自殺者を防ごうと考える人は少数派なのである。・・・経済状況が悪くなったから自殺が増えている、と平然と言い放つ人が多いことでもわかる。それでは、飢餓状態の国では自殺が蔓延するのだろうか? 是非、答えを聞きたいものである。

 資本主義社会が円滑に動くためには、社会的に意義あるニーズに応え、新ビジネスを創出する必要がある。抗鬱剤ビジネスも、こうした動きと見なすべきだ。もちろん、行きすぎもあるかもしれないし、バブルや腐敗が生ずる可能性も否定できない。しかし、ニーズ対応の動きを、前もってコントロールすべきでない。
 日本にはこうした考え方を否定する人が余りにも多い。始める前から、規制するのである。

 規制社会は市場の歪みが膨れ上がる。
 日本の抗鬱剤市場は典型だ。海外と比較すると、市場規模が極端に小さい。精神科通院への偏見もある上、安価で、古い薬剤が多く、長らく100〜150億円市場が続いていた。この規模では、研究開発対象の焦点にもならない。

 とはいっても、時代は変わる。
 新世代の抗鬱剤(Selective Serotonin Reuptake Inhibitors, Serotonin-Noradrenaline Reuptake Inhibitor)が1999年に認可され、市場は急伸した。SSRI/SNRI市場は300億円に達したと見られている。
[SSRIの代表ブランドはProzacの他にはPaxil、Zoloftがある。日本市場は状況が異なり、SSRIはルボックス(藤沢)/デプロメール(明治製菓)とパキシル(SKB)。SNRIはトレドミン(旭化成)である。]
 これに加えて、個人輸入代行業者による、同成分のジェネリック製品販売も行われており、「バイアグラ」に次ぐ輸入量に達していると思われる。

 すでに、日本の若者には「ドラッグ」感覚が組み込まれており、医薬品形態のサプリメントや抗鬱剤服用に文化的バリアなどない。
 アーティストの覚醒剤汚染がマスコミに登場するが、これも、もはや例外的現象ではない。今や、繁華街では簡単に覚醒剤が手に入るし、利用者にも罪悪感はない。驚くべき退廃だが、これが現実である。

 「新しい日本」はここまで変化が進んでいる。一方、「古い日本」は相変わらず現実を直視せず、ドグマにかじりつく。抗鬱剤を、特殊な薬剤のままにしておきたいのである。
 もちろん、抗鬱剤に限らない。社会構造を変えたくないのだ。


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