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2007.4.11
 
 


予め考えておくべきこと…

 ここ1年ほどで、学生時代同期だった友人が3人亡くなった。
 大企業の事業部長職で多忙だったとか、関連会社で研究することになって環境が大きく変わったり、工業会で方針作成責任者として意見調整役で苦労していた、といったいかにもストレスが溜まりそうな仕事をしていた人達である。

 故人を偲んで集まったりすると、自然に「死」が話題になるが、備えができていない人が多いようだ。
 と言うと、そんなことは無いと反論がかえってくるかも知れない。生命保険も掛けているし、家もあるから、残された家族はそれなりにやっていけるというのである。

 確かに、そのような備えは重要だろう。
 昔、大学の先生をしていた同期生が、サーフィンをしていて亡くなったが、家族のことを考えておらず、大変だったと後から聞かされた。突然の死というショックに加え、収入が閉ざされれば、家族は路頭に迷いかねない。備えは当然のこと。

 しかし、それはあくまでも家族の問題で、本人の問題ではない。本来、家族で考えておくべきものだ。

 ここでの「死」の話は、あくまでも、個人の問題。
 人は必ず死ぬ。それではどう死ぬか。換言すれば、死ぬまで、どう生きるかは、個人の選択事項である。この意思決定ができていない人が多すぎるのではないか。

 そう考えるのは、癌と宣告されたりすると、平静心を失う人が多いと聞くからだ。
 無理からぬことだから、わからないでもないが、ほとんどの人が癌にかかるという感覚が欠如しているのではなかろうか。

 現在、死亡原因の約3割は癌である。(1)しかも、癌が発見されても、そのうち5割以上が生存できるのだから、(2)過半の人は癌にかかると想定してもよかろう。要するに、人生、癌と無縁ではいられないということ。

 つまり、癌にかかったらどうするか、予め考えておくべき時代なのである。

 こんな話をするのは、実は、この正月、一人の外科医師がお亡くなりになったからである。お会いしたことは一度も無いが、原因は末期癌らしい。
 ところが、この医師、死の直前まで、仕事を続けておられた。そのため、突然の逝去で驚いた人が多かったようだ。

 実は、“末期癌らしい”と言うのは、相当前に、癌の切除手術を受けたと聞いていたからである。
 ところがブログでは、ペットの散歩の話以外は、専門分野の治療の話だけ。癌にかかっていることなど、全く触れられていない。おそらく、ブログ読者は、元気に活躍している医師イメージを抱き続けて来たに違いない。
 言うまでもないが、死は、本人が予想した通りのスピードでやってきたのである。
 これを、壮絶な死と見る人もいるかも知れないが、プロフェッショナルとしては、極く自然な態度だと思う。

 --- 参照 ---
(1) http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai03/deth.html
(2) [米国]“The overall 5-year survival rate for adults diagnosed with cancer in 1996-2002 is 66%.”
  http://www.cdc.gov/cancer/survivorship/
  [癌の生存率の罹患部位ステージ別の生存率概観]
  http://tanno-holistic-medicine-japan.com/html2/survivalrate.html

 §§§ 西行の歌 [山家集 巻下] §§§ http://etext.lib.virginia.edu/japanese/saigyo/SaiSank.html

  いにしへに 変らぬ君が 姿こそ けふはときはの かたみなるらめ

右京区常盤で過ごし続けている藤原爲業が堂を建て、山寺に住む親友一同を招いて供養会を開いた際に西行が贈った歌との詞書がついている。形見だというのだ。

  色かへで 獨のこれる ときは木は いつをまつとか 人の見るらむ

常盤木の松は色を変えないで独りでいるが、人々は、未だに出家しないでいる私を、何時出家するか見ていることでしょう、と爲業は返した。


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