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2010年1月29日
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【古都散策方法 京都-その14】
嵐山の雑踏に紛れ込む。

嵐山で「遊客」と混じるのも一興。
 人込みが嫌いなので、意図的に外しつづけてきたが、触れない訳にはいかない名所がある。嵐山である。
 ここは、関西一の大観光地。3本の鉄道の駅から次々と乗客が降りる上、到着する観光バスやマイカーの台数も半端ではないから、大混雑は避けようがない。
 従って、雑踏も又嬉しきかなと達観する必要があろう。もっとも、シーズンを外せばどうということもないのかも知れぬが。

 狭い道に人が集まる清水寺辺りも、関西の人達が集中する一大観光地だが、こちらは、参詣の人達を対象としたお店が並んでいる印象がある。これに対して、嵐山はそうはならない。渡月橋からの景色を眺めればそれだけでも満足という人が少なくないのだと思われる。ついでに、料金も廉価だから、世界遺産のお庭も見るかといったところではないか。従って、若者が群れる、俗っぽいお店が並んでしまう訳だ。
 明治神宮の間近に竹下通りがあるように、特段驚く現象ではないが、そうした雰囲気の通りを避けて歩けないのは、嫌いな人にとってはつらいものがある。それを我慢しても行くだけの決意が不可欠。

 しかし、関西の人にとっては、そんな雑然としたところが、逆に“名所”としての面白さに繋がるのかも。
 要するに、嵐山は「遊客」の地なのである。

 おっと、「遊客」とは、中国語の「観光客」だから、これでは意味が通じないか。
 そういえば、観光とはどういう意味なのか気になるところだ。・・・語源は「易経」に記載されえる卦の20番目“観”で登場する「六四。観國之光。利用賓于王。象曰。観國之光。尚賓也。」らしい。
 う〜む。
 誰が考えても、これは政治の話だ。旅とか、風光明媚な地を眺める意味は全く含まれていない。お金をもらって“旅遊”する際に、これは状況視察の“観光”だと言いくるめる習慣が昔からあったということかな。

 もっとも、“光”景を眺めることの楽しさは万国共通のようで、英語でも“sightseeing”と呼ぶから、単に転用しただけかも。名所を巡って旅をすることなどなかったのだから、格好をつけて“観光”という用語にしてみたのかも知れぬ。現在でも、周遊旅行と言うより、○○ツアー表現が喜ばれている位だし。
 ちなみに、世界を飛び回る人達が使う言語だけあって、英語には色々な表現がある。訳が正しいかはわからないがあげてみた。・・・
  journey=日誌をつけながらの旅
  travel=苦労しながらの旅
  tour=周遊する旅
  trip=ちょっと出かける旅
  excursion=遠足
  outing=外出
  picnic=野遊び
  hikinga=野歩き

天龍寺は御霊を祀った神社に近い気がするのだが。
 何故、嵐山を取り上げたかと言えば、禅寺の妙心寺と大徳寺を取り上げておきながら、天龍寺を全く知らん顔という訳にはいかないからである。

 ただ、臨済宗のお寺として、シリーズ的に取り上げようとは思わない。お寺の面積からいえば相当広いが、建築物は最近再建されたようなものだし、門に至っては、とても大本山のものと思えないようなものだから、伽藍拝見に行こうと考える状況にないからだ。

 それでは、皆、何故訪れるかと言えば、言うまでもなく、世界遺産として認定されたお庭があるからである。
 いうまでもなく、夢窓疎石作庭とされており、一度は見ておくべしと言う人ばかり
 しかし、小生はこの作風に疑問を感じる。

 絵葉書的に綺麗といえばそうかも知れぬが、なにかひっかかるものを感じるのだ。
 例えば、山中湖と富士山のシーンは美しいが、それは庭とは違う。庭とは、例えば、この美しさを限られた範囲でどう表現するかということになる。そこには、おのずから作庭者の思想が浮き出てくる。
 そう考えると、この庭は、禅僧である夢窓疎石が目指していたものと呼んでよいのかね。

 そう思うのは、このお寺の伽藍配置に理解し難いものがあるからだ。
 門からの伸びる道は西向きというのが解せぬ。大寺院だというのに、三門は無い。
禅宗にとって、この門が重要だったことは、東福寺や南禅寺の巨大な建築をみればわかるが、このお寺、門が塔頭用な印象を与えるほど小さいものなのだ。
 そして、有名なお庭とは方丈の裏庭である。ところが、どう見ても、そのお庭を重視してきたのである。どこか変である。

 しかし、由緒を考えると、その疑問が解けてくる。
 足利尊氏が、第96代の後醍醐天皇の菩提を弔うため、後嵯峨天皇の亀山離宮を禅寺にしたからだ。別荘を禅寺にするのは別に珍しいことではないし、菩提を弔うために寺にするのはごく普通の姿勢だが、問題は尊氏と後醍醐天皇の関係である。

 言うまでもなく、当時は、南朝・北朝対立のまっさかり。後醍醐天皇の御所は金峯山寺の 吉野山吉水院(現在は吉水神社)にあった。行ったことがあるが、山のなかの実に小さな建物である。そして、結局は、京に戻れずじまいだから、その無念さはいくばくか。
 おわかりだと思うが、貴族政治の時代なら、これはただならぬ御霊の祟りに襲われることになると解釈される一大事件。公家勢力だったら、御霊神社を造るが、尊氏は禅寺にしたいうこと。
 本当なら、祖父と曽祖父の御陵の西側に後醍醐天皇の御陵があるべきところが、それどころではなくなった訳だ。この3代の天皇の菩提を弔うという話になったのだろう。

 従って、仏殿や法堂は禅寺としては必要だが、霊を鎮める目的からすれば、重要なものではなくなる。それが、この伽藍配置に繋がっているのだと思う。
 と言うことは、庭園は禅寺のものではないということ。その目的は霊を鎮めることにあり、亀山天皇時代に造られた浄土式庭園をできる限り使ったに違いないのである。それに、禅宗的な作庭の考え方を接木することになる。
 従って、どうしてもチグハグさを感じさせるものに仕上がるのだ。言ってみれば、金閣の三層のようなもの。それを美と見ることもできるが、キッチュと感じてもおかしくはない。

 要するに、このお庭を眺めれば、素人でも、四季折々の花鳥風月を愛でるための、昔の庭が頭に浮かんでくるということ。
 この点では貴重なお庭である。貴族が愛した浄土式の庭園と簡単にいうが、それは絵画で観る想像の世界でしかない。実物が残っていないのだから、平等院鳳凰堂のセンスから推定する以外には手がない。
 それなら、天龍寺のお庭を眺めた方が気分に浸れるかも、つまり、禅寺的な精神性を感じさせるものを、自分の頭のなかで消せばよいのである。

 そうなると、こういうことになるだろうか。
 池はもっと大きかった。船を浮かべて大いに楽しんだのだろうから。もちろん池には、中島があり、橋が架かっていた。そして、州浜が強調されていた筈。
 これらはすべて、微妙に変えられたことになる。鶴島、亀島、三連の石橋として、象徴的に残してはいるが、もっと大きな島だったと思う。当然ながら、龍門瀑などなかっただろう。
 この石組は落ち着いた浄土感が生まれないように設定されたのではないか。それに、作庭記でも、えらく凝っている感じがする、水の流れを見せないようにした点も、重要な変更点ではないか。鑓水と曲水で、雅な遊びの余地を作りだしていたと思うのだが。

南朝びいきの人はお参りに行かざるを得まい。
 こうしてみると、楠木正成信仰(湊川神社)が篤い関西一円の人が、嵐山に集まるのも当然という気がしてくる。

 天龍寺は後醍醐天皇をお祀りした神社に近い感覚なのでは。多宝殿再建(1934年)後は、こちらに祀られる後醍醐天皇尊像にお参りするために訪れるということかも。紫辰殿にそっくりなお堂に安置されているというのも、人によってはジーンとくるのではないか。庭も寝殿造りに合ったものでなければ。

 そんなことを想うと、お堂の前の桜も意味深。

 昔は、商人を使った天龍寺船による、元との貿易で力を持つ禅寺になったが、これからはお庭と門前町によって人を呼び込むことで発展を図るということかも。これすべて、後醍醐天皇のお蔭。

 そんなことを考えながら、雑踏を歩くのも面白いかも知れない。

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