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2010年2月16日
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【古都散策方法 京都-その19】
谷崎風に、「古都」で陰翳を鑑賞する。

文芸作品、「古都」の筋を追う散歩は好きになれぬ。
 キリリと寒さが身に染み、凛となるという漱石流の京都感を味わう話のお次は「古都」を題材にした文芸の世界を取り上げようか。
 そのものズバリは川端康成の新聞小説「古都[1961-62年]」。
 この話、京都という背景あってのもの。それを欠くとなにも残らないのではないか。と言っても、京都の四季を描いた小説でもない。
 「伊豆の踊り子[1926年]」と対となる作品を狙った印象を受けるが、こちらの哀愁感は通俗的な感じがする。テレビドラマに最適シーンはいくらでもあるが、「美しい日本の私[1968年]」の美意識とはかけ離れている気がする。

 同じ「古都」でも、“東京にゐることが、たゞ、やりきれなくなつた”人が逃げていく小説もある。1941年の作品。
 “汽車が動きだすと、女は二三歩追ひかけて、身体を大切になさいね、身体全体がたゞその一言の言葉
だけであるやうに、叫んだ。不覚にも、僕は、涙が流れた。”  流れ着く先は“京都のゴミの溜りのやうな”ところ。そこで、“東京を着て出たまゝのドテラと、その下着の二枚の浴衣だけで”、“毎晩好きなだけ酒をのみ、満腹し”た生活を送ったのである。
 と言えばおわかりだと思うが、これは坂口安吾の「古都」。(→ 青空文庫)
 ここで描かれている、町の凄さと言えば、“その日のお天気に一生をまかせたやうな顔をして、暮してゐる”“貧書生が沢山をり、”そんな生活が公認される社会という点。
 “ 暮してゐる人々は”、“絵師さんだの先生”と呼ぶし、“警察の刑事まで”同じ態度。
 そんなところが、京都から世界に雄飛する企業が生まれる所以でもあるのかも。
 もっとも、この小説の主人公は、“考へることを何より怖れ、考へる代りに、酒を”呑む生活に沈潜していくのである。

 このどこが「古都」なんだねとなろう。ただ、時あたかも、日支事変。
 ここら辺りの時代感覚を考えるとわからなくもない。
 ・・・“時間がなかつたので仮に古都と題しておきましたが、全然気に入りませんから、次回を載せる時は題を変へます。 (未完)”
 ハハハ。

「細雪」の方が古都感を誘う。
 小生は、こうした「古都」作品よりは、谷崎潤一郎の「細雪」の方に京都らしさを感じる。1942年から発表を始めたようで、安吾の「古都」と同じ頃の作品。

 もっとも、主人公は船場育ちだし、話言葉も大阪弁で、京都の話ではない。
 それに、谷崎自体も京の人でもない。しかも、京都に移り住んだと言っても、結局のところ、熱海に居を構えている。その程度の京都好きでしかない。
 しかし、どういう訳か、「細雪」に京の都の情緒を感じてしまう。その原因は、紫式部の王朝物語と瓜二つだから。主語が自明でない上に、句点で区切られるだけの、源氏物語調文章は谷崎ならでは。
 しかも、その筋たるや、光源氏の話と同じで、どうということもないもの。ドラマティックなシーンはなく、ただただ感傷的な情景が連続するだけ。主題を議論するような手の作品ではない。

 シニカルな龍之介の言い草も当たっている。(→ 「食物として」青空文庫)
 ・・・谷崎は“西洋酒で煮てくへば飛び切りに、うまい”。

 と言っても、西洋的文芸感で見れば、細雪は大衆的風俗小説の一言で切り捨てられかねない。昭和の上流階層が、自分達の価値観のなかで、とりとめもない結婚問題で蠢く姿を描いただけなのは間違いないからだ。
 ただ、そんな小説を、戦争まっさかりの時に、軍部の発禁に抗して書き続ける特異性は、ただものではない。「背徳」志向の作家だからこそ。
 ただ、「背徳」と言っても、西洋的なタブー破りを目指したものではない。ここが肝要なところ。

 日本的な美意識を徹底的に掘り返しただけなのである。従って、キリスト教的価値観や儒教の道徳観に染まっている状況を痛烈に批判したと言えなくもない。
 だいたい、万葉集の世界に「背徳」感がある筈もなく、外来思想で捻じ曲がってしまった日本人の醜い姿が気に食わなかったということ。
 「細雪」は、実は、日本古来の美意識を復活させた作品なのである。

漆器をじっくり拝見するのも面白いかも。
 と言うことで、谷崎の世界に浸りながら、「古都」を歩こうと考える人がいてもおかしくない。

 そうなると、「春琴抄」[1933年]を書き上げた、神護寺(第10回)の地蔵院訪問が思い浮かぶが、これは今一歩。
 人の目を気にせず逢瀬を楽しめそうな地ということで選んだ場所だろうが、今はかわらけ投げの地で、そんな風情を感じることは無理だから。
 おそらく、他の地も同じようなものだろう。谷崎の愛した世界を見つけるのは結構難しそうである。

 今や、「陰翳礼讃」[1933年]の感覚を味わえる場所など滅多にあるものではない。

 それも仕方がない。
 観光客とは、 煌々と明るい白色蛍光灯のリビングルームで“総天然色カラー”のテレビのバラエティ番組を見続けてきた人達なのだから。
 谷崎ファンにしても、「陰翳礼讃」に登場するお店の名前を追って歩くらしい。まさしく、テレビドラマのロケシーン巡り。火鉢で湯豆腐の小鍋を頂く、江戸風俗の旅と同じ発想。谷崎の美意識とどうつながるのかさっぱりわからぬが。
 生涯に40回以上も引っ越した"引越魔"でありながら、7年間住んだ家を拝見させていただくのが一番よいのだが、「京都に来たときは見に来たいので、できれば現状のまま使ってもらいたい」ということで原則非公開なのが残念至極。
  →  「石村亭プロジェクト」 (C) 日新電機

 それだったら、漆や羊羹が醸し出す幽玄さに触れる散歩の方がよいかも。
 ちなみに、“先生”たる漱石の羊羹の美は以下のようなもの。
 ・・・ “あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。”(→ 「草枕」 青空文庫)
 ただ、青磁が気になったのだろうか。“だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあのものを口中にふくむ時、室内の暗黒が一個の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそううまくない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。”というのだから。
 コレ、電球の弱い明かりしかなかった時代の主張。今や、都会など、夜がない状況だ。そんな環境で、“蒼ざめた”羊羹や、“漆黒の”羊羹などという話は場違いか。

 ということで、せっかくだから、漆の美を鑑賞してはどうか。漆器老舗に行くのもよいが、国立博物館の展示室で静かに鑑賞した方がよかろう。
  →  「漆器」 [永田友治, 佐野長寛, 京漆器老舗「美濃屋」コレクション(廃業店の寄贈品)] (C) 京都国立博物館

 様々な工芸品を見やれば、気付くと思うが、その深みに必ずつき従うものがある。和歌はもちろん、物語も隅々まで知っていないと、意匠の意味が理解できない仕掛けが組み込まれているのである。絵や形から情景を読み取らないとなんの面白みもないということ。
 「細雪」が王朝物語の雰囲気とすれば、「漆器」は歌絵だ。素養がないと、「漆器」はまともに鑑賞もできないのだ。塗り物に、奥行を感じるのは、光学的現象だけではないのである。
 「檸檬」が売られていたシーンを想い起こすとよい。果物が売られていた台は、古びた黒い漆塗だったのである。

一応、京の羊羹も味わっておくとよい。
 そう、肝心の羊羹の方だが、寒天を入れれば、棹物は黙っていても照りは出る。輝き自体は上品とは無関係。従って、「陰翳礼讃」に従って、羊羹の色を楽しむのは、そう簡単ではない。

 例えば、学生時代の山歩き用に多用した超甘製品は表面がテカテカと光輝いていた。
 逸品モノも表面は同じように光るが、下層の鈍重な質感が感じられる照りが特徴。包装や形状が違うから、その差は大きいと思いがちだが、実際はかなり微妙。総天然色の日常生活を送っていると、そう簡単に差がわかないのが普通。色の深みを楽しむには、それなりの訓練が必要なのである。
 そもそも羊羹は竹皮で包んだ蒸モノ。それを、寒天を入れることで、光沢感が出る練り物にしたのである。漱石が示唆したように、美味しさというより、見た目の美しさを追求した菓子ということ。華美を好む秀吉が流行らせたから、定番化したに違いないのである。
 そう言えばご想像がつくと思うが、黒が嫌いだった権力者だから、紅色菓子だったのだ。
 1589年のこと。(→ 「駿河屋の歴史」 (C) 総本家駿河屋)
 羊羹のスタンダードは、東京に移ってきた、とらやの竹皮の大棹。確かに、とろけて滲み出る糖の光沢が美しい。京都は老舗だらけだから、お好きなお店でお買い求めになって、“どう云う具合になるか、試しに電燈を消して”蝋燭の明かりしかないほの暗い部屋で羊羹を鑑賞するのも一興かも。
 小生は、亀廣永の「したたり」の黒砂糖が醸し出す琥珀色の方が美しいと思うが。まあ好き好き。

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