■■■■■ 2010.12.20 ■■■■■

 書評: 高山鉄男訳 “Haï”

 予めおことわりしておく。題名を“書評”にしてはみたが、そのような内容ではない。

 2010年も押し詰まってきたが、今年の読書で忘れられない一冊がある。題名にあげた書籍ではなく、大学教員執筆の社会科学系新刊本。美麗な装丁なので、一般人も読めるものと思い手にとっただけ。
 ところが、予想に反して、本文最初の一ページを読むのに5分以上かかった。それだけ時間をかけても、何がなんだかさっぱり。結局、5ページで諦めてしまった。
 ともかく、文章が圧巻。
 主語と述語が一致しないものだらけなのだ。しかも、主語から述語を想定することも、その逆に、述語から主語を想定するのも、桁外れに難しい。素人には手に余る本だった。結局、5ページ分の内容把握どころか、議論対象が何であるかさえ理解できなかった。
 世の中には凄い著作があるものと感服。

 お蔭で、自分が、いい加減な文章を書きがちな理由もわかってきた。
   (1) Barbara Minto的ピラミッド型秩序(ビジネス表現の鉄則)からできれば離れたい。
     ・・・トピックセンテンスや箇条書きは頭の整理に悪くはないのだが面白くない。
   (2) 書き始めると、新たな興味や、気付きがあり、話の筋が変わりがち。
     ・・・広い視野を保ちたいと言えなくもないが、注意力散漫なだけかも。
   (3) パラグラフ毎にまとめることが大嫌いである。
     ・・・義務教育が面白くなかった。天邪鬼ということか。
   (4) インスピレーションを好むので、読み返しや、推敲をしたくない。
     ・・・編集能力ゼロかも。読み直して訂正すれば、“棘”を失うというのはその言い訳。
   (5) そもそも、わかり易い文章は余り好きではない。
     ・・・う〜む。どうも、そんな気がしてきた。
 まだあるのだが、ここで、ハタと思い当たった。
 高校生時代、訳もなくクセジュ文庫を読んでいたことを思い出したのである。訳文には難儀したから忘れられないのだ。お蔭で、時間を消耗する本ばかりで、受験勉強どころではなかった。しかし、フランス語とは特別な言語に違いないと得心した覚えがある。当然ながら、フランス語を第二外国語にする気は完全に失せた。
 そんなことをつらつら考えていた時、1975年に出版された“Haï”の改訳文庫本が出版されたと耳にしたのである。これは読んでみる価値ありと跳び付いた訳。

 “Haï”と言われても、わからぬが、著者はル・クレジオ[Jean-Marie Gustave Le Clezio]と聞けば、内容は察しがつくだろう。そう、ノーベル文学賞受賞作家のルポ的な絵画写真書である。そう言われてピンとくる人の大半は、本を思い出すというより、絶版邦訳本の古書価格が高騰に驚いた口か。
 そんなことはどうでもよいが、邦訳タイトルは「悪魔祓い」。インディオ文化 v.s.西欧文明を取り上げた、文明批判の書とされている。ただ、Haïの意味は“活動と精力”である。著作の最後の〆の文章によれば、「世界は、とりわけこれらの二つの力から成っている。すなわち、ハイ、活動と精力、そして、ワンドラ、隷属、支配、所有。」そうだとしたら「悪魔祓い」という題名は如何なものかと言い出す方がおられるかもしれないが、実はどうでもよい話だと思う。理由をくどくど説明する気はないので省くが。

 さて、一応、書評らしく感想だが、一行でまとめると、「フランス語訳の独特の雰囲気を好む人にはこたえられない一冊」といったところでは。
 わかりづらいかも知れないが、例えば、こういうこと、・・・。
 【訳文】“花と葉は、越えがたい壁をなしている。それは石と鉄でできた城壁よりも長持ちする沈黙と静寂の世界だ。つねに世界はその扉を閉ざしている。”
 日本語だとこう書きたくなるところだ。“花と葉には、越え難い壁がある。--- その壁を越えた世界への扉は、常に閉ざされている。”こう書いてあるとわかり易いが、この表現では残念ながら著者の感覚が伝わらない。と言うか、この辺りの言い回しがフランス語の面白さ。それが好きになるとたまらないが、逆にそれが耐えがたい人も少なくなかろう。
 読み易い文章を書く志賀直哉が、国語を仏語にすべしと語ったのもむべなるかな。

 こんなつまらぬことを書いたのは、フランス語を書き言葉主導の言語と見ているからである。
 ル・クレジオがいくら頑張って描こうとしても、原理的に、文字を持たぬインディオ言語文化を伝えるのは難しいということでもある。Franceは女性、francaisは男性だし、fleurには単・複数があったりすることでわかるように、創造主による峻別目線が組み込まれている言語なのである。そんな言葉で、言霊の世界を描ける道理がなかろう。
 余計な話だが、言霊を気にする日本語なら、少しはましかも。

 ただ、日本人だからといって、インディオの文化がわかるとも言い難い。
 中根千枝著「未開の顔・文明の顔」[1990年]をお読みになったことがあると思うが、インドでの話を読み直していただければわかる。そこでは、スーツを着こなし欧米流の生活をしている、大卒キリスト教徒の精神生活が浅薄と指摘されている。どういうことかといえば、未開の血が流れているから。たったそれだけのことだが、これが重大なのである。と言うのは、字も読めぬ百姓であっても、ヒンドゥー教徒だと、精神的な落ち着きを感じさせるからなのだ。しかも、こちらは文化の香りがあるそうだ。そして、未開人には違和感を覚えるので一緒にいるのが難しいとまで。そこまで言うのかというほど。
 要するに、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教といった経典を持つ高度な宗教こそが“文明の顔”をつくるという訳だ。それを欠く人は“未開の顔”になり、精神的な深みはとても期待できないとなる。
 ほほ〜。そうなると、神社で相変わらずヒト形お祓いを続けている国の民を、中根千枝流に眺めれば、文化の香りなき未開人の集まりということか。(尚、日本の仏教徒は在家中心で、文字を読めるのにもかかわらず、邦訳経典を持たないのが特徴。家庭で仏壇と神棚が並ぶことも少なくないから、仏教徒とも言い難い面もある。)
 まあ、確かに、ル・クレジオが目にしたインディオと日本人は本質的にはなんら変わらないといえなくもない。
 日本人は、獣と人間の間に決して精神的な境界線を引こうとはしなかったし、物理的にも、里山を両者混交地とすることで、共存を図ってきたのである。動物はヒトのために生きているといった、ヒエラルキーとは無縁なのである。

 だが、ル・クレジオがインディオから受けた感覚は「未開の顔」ではなかった。そこにヒトの生き物としての本質を感じとったのだと思う。従って、当然ながら、インディオには藝術は無いという結論になる。
 その通り。
 日本人なら、とっくにお見通。日本の芸術感はだいぶ違うからだ。職人が打ち込んだ工芸品は、クラフツではなくアートと見なすのが普通。その根底には、自然こそ第一級の芸術品という発想があり、ヒトが全力を傾注した作った作品には霊が籠っていると感じるのだ。それこそが、「藝術」であるが、それはアートという言葉と一致している訳ではない。言うまでもないが、信仰対象の仏像となれば、「藝術」という範疇から除外されてしまう。偶像崇拝をダブー視する「文明」では理解し難いところかも。
 要するに、日本には、インディオ感覚が相当なレベルで残っているのである。
 従って、日本でのアバンギャルドや古代感覚回帰藝術運動が、フランスのそれと同じという保証はない。現代文明へのアンチテーゼにならないからだ。

 ただ、インディオのカラフルな色使いには、ル・クレジオ同様に、日本人も目を見張らされるものがある。
 おそらく、それは、色とりどりの花畑世界を現しているのではと思う。アジアの山岳地帯の仏教曼荼羅図の原色カラーば、いかにも自然の色という感じがあるからだ。
 言うまでもないが、それは日本にはそぐわない。だが、それは色に対する感受性が鈍いことを意味するどころか逆。自然のなかに生きている民族は、“色”に対する感受性が高まるのは当たり前である。日本人の色の識別能力は、色名の多さをみれば一目瞭然。

 日本人にしてみれば、ル・クレジオが触れた世界は、なんら驚くようなものではないのである。

【ご参考---ウエブの書評 】
  今福龍太(文化人類学者) 読売新聞 [2010年7月12日]
  橋本大也(IT起業家/書評ブロガー) [2010年12月4日]

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