■■■■■ 2012.3.28 ■■■■■

 何十年かぶりに、まともな学長祝辞に出会う

毎年、この時期、入学式・卒業式の学長挨拶がニュースになる。今年の祝辞は如何にということで、ニュース検索したら、「【きょうの名言】大学の存在根拠自体が問われている」(YUCASEE 26日)と、「「厄介な社会、気の毒だけど頑張れ」石原知事、首都大卒業式で激励」(産経 21日)とのタイトルが目についた。

早速、名言とはどんな手のモノかな、と思って原文を読んでみた。

うーむ。
時代性を取り上げたり、若者に檄をとばすとか、格言を紹介するなど、様々な工夫がなされているだけのモノが普通なのに、これは異色。

だいたいメディアが取り上げる大学は、コネの巣窟のようなところ。従って、挨拶の骨子は決まっているも同然。----「皆さん社会で頑張って下さいネ。これから先、真面目にコツコツ励むのも良いし、挑戦するのもアリですが、社会に役立つように頑張って下さいネ。そんな初心を忘れないようにということで、私の一言をプレゼント。」てな調子が普通ではないか。もちろん、品位は違うが。

ところが、まともな祝辞が登場したので、ビックリ。
本来は驚いてはいけないのだが。
「卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)」2012年3月24日 吉岡知哉立教大学総長

以下、勝手に抜粋引用でまとめてみた。

●大学の存在根拠とは、
    一言で言えば
       「考えること」。
 もう少し丁寧に言うと、
    人間社会が大学の存在を認めてきたのは、
       大学が物事を徹底的に考えるところであるから。
要するに、
●大学での学び(では)
    単なる知識の獲得ではなく、
       思考法を身につけることが大切。

一般社会生活では、これは難しい。
●現実の社会は、
    歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって
       組み立てられています。
 日常を生きていく時に(は)、
    日常世界の諸要素や社会の構造について、
       各自が深く考えることはありません。
そして、厄介なことに、
●社会的な諸制度は
    次第に硬直化し
       自己目的化していきます。

従って、
●人間社会が健全に機能し存続するためには、
    既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、
       社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。
 大学(と)は、
    そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、
       自らとは異質な制度。
 大学は、
    あらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、
       人間社会からその存在を認知されてきたのです。
つまり、
●大学が自由であり得たのは、
    「考える」という営みのためには自由がなければならないことを
       だれもが認めていたからに他ならない。
言葉を換えると、
●大学は
    社会から「考える」という人間の営みを
       「信託」されているということ。

言うまでもないが、大学の危機を訴えかけている訳である。

●大学の危機が論じられる(と)
    問題になるのは、
       「グローバル化」と「ユニバーサル化」。
しかし、
 人間社会が
    大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、
       そのことのほうがずっと深刻な危機。
つまり、大学の役割が変わってしまい、
 社会が大学に求めるもの(が)、
     「考える」ことよりも
       すぐに役立つスキルや技術に特化。

●このような変化の背景に、
     そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような
     気分が醸成されてはいないか、
       という点にも注意しなければなりません。

その通り。反知性主義を叩き潰せるかで、日本の将来が決まる。
素晴らしいの一語につきる。


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