■■■■■ 2012.6.10 ■■■■■

  「暗黙知」について

「暗黙知」を「形式知」へと止揚する「知」のプロセスの議論が一世風靡した時代があった。日本企業が世界を席巻していた頃のこと。
もちろん、今でも、この言葉はよく耳にするが、そんな知のマネジメントで勝負しようとの熱は冷めてしまったようだ。
まあ、それも致し方なかろう。
ただ、日本企業の地盤沈下が激しく、そんな意義が薄れたという話をしたいのではない。せっかく、議論に花を咲かせたのだから、そろそろ振り返ってみたら如何というだけのこと。

小生の場合、はなからこの手の話には一歩退いて対処してきた。「暗黙知」の解釈があまりにバラバラで議論する気がしなかったからである。それぞれの企業風土に合わせ、ご都合主義的に意味付けしただけのようなものも少なくなかった。これでは、たんなるファッションに過ぎまい。この用語に飽きれば、急速に下火になってしまう。今は、そんな状況なのかも。
さらに付け加えるなら、この議論と並行して行われた、IT部門お勧めのノレッジデータベース構築の方も、とうの昔にガッカリ状態だったとしても、冷静に今一度その意義を確認しておくとよいのでは。

それはさておき、哲学書を読んだことがある方だと、「暗黙知」の議論には、しっくりこなかった筈。職人的なブラックアートの世界のイメージで「暗黙知」を語る方だらけだったせい。技能と技術の違いをはっきりさせないまま、突然にして「暗黙知」を語り始めるのだから、聞かされる方は大いにとまどう訳である。
もともと、職人芸の特徴は2つ。
1つ目は、明確な目的のもとに、課題を整理して、重み付けを行うことを嫌う点。
2つ目は、経験則を明確にせず、法則性の存在を否定しがちな点。
前者の結果、他人にはよくわからない理屈で、細部にこだわることになる。下手をすれば、コスト無視の唯我独尊状態で仕事が行われたりする。
後者の結果、ともかく自分流のやり方に固執し、勘を重視する。実証性を欠いていても、なんとかなりそうとの直観で動こうとするので、リスクに晒されがち。
言うまでもないが、科学的に考えるということは、こうした体質からの脱却そのもの。

日本では、こうした指摘をすると、思弁的とされがちで、嫌われる。現場を知っていれば、それも止むを得ないことに気付くのだが、そうでないと相当な違和感を覚える筈。
今は昔の話だが、製薬企業の人事感覚に驚かされたことがある。職種によって細かく専門性が分かれている訳だが、日本的人事は叩き上げ的現場重視一色。ドンピシャ分野は別だが、専門スキルを持つ人を雇用するとか、メディカルドクターや薬学博士号取得者を担当者にすることを極力避けていた。西洋的な見方からすれば、こうした姿勢は、科学的思考方法が身についていて、対象分野の全体像が見えそうな人の知恵に期待していないとしか映るまい。現場事情が詳しいだけで、浅知恵しか生み出せない人を起用するトンデモ人事が行われていると見なすことになろう。
しかし、実はそれが逆だったりするのが日本の現実。「専門家」の呼称はあるものの、科学的思考方法がさっぱり身についていない人が多いからだ。目的に応じた課題の優先順位付けもできず、採択した解決策にしても説得力ある理由がなかったり、おまけに、何の知恵もだせないとなると、起用したくなくなるのは当たり前。現場の方が、余程しっかりしていたりする。基本的素養なき「専門家」は御免というのが正直なところ。

こんなお話をすれば、なんとなく感ずるところもあろう。
そう、日本企業は、無自覚ではあったが、科学的に考えるスキル取得のOJTの仕組みができあがっていたのである。ノレッジデータベース構築や、マニュアル化それ自体は意義があるが、それは道具作りにすぎない。道具を作り・使えるヒトを育てる仕組みが稚拙だと組織の力は急速に衰えかねない。厄介なのは、しっかりした道具作りを日々の仕事に組み込むと、今までのヒトを育てる仕組みと整合がとれなくなることがある点。
なかでも危惧されるのは、参照巧者が有能とされがちになり、じっくり考える知恵者は落伍しかねないこと。短期的には効果が上がるが、長期的には知恵がでなくなる道を歩むことになる。

立派な図書館と超有能な司書が存在すれば、競争優位が約束されることなどあり得まい。そんなこと、わかっていそうなものだが。


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