■■■■■ 2012.7.5 ■■■■■

  一素人の考古学本読後感

とある古墳本の話を取り上げてみたい。

小生、それほど考古学に興味がある訳ではないが、古墳の研究はどの辺りまで進んでいるのかは、多少は気になる。考古学は、マイナーな学問分野とは言い難いからでもある。実際、1997年の発掘調査経費は約1,300億円。1999年の調査に従事した専門職員は7,000人にのぼったと言うのだから。これだけの規模で調査が進んでいれば、発掘対象は古墳だけではないにしても、様々な新事実が判明してもおかしくなかろう。

ただ、ズブの素人にとっては、どんな本を読むとよいのかがバリア。いかにも一般向けの書籍は数々あれど、面白ネタ中心の可能性が高そうで、どうも食指がうごかない。一方、専門書の雰囲気を醸し出している本だと、対象範囲が偏っていそう。ある程度の知識がないと、読んでも面白くなさそうだ。
ところが、たまたま、最近発刊された「講座 日本の考古学 8」というぶ厚い本を見かけた。シリーズものは、バラバラな専門の寄せ集めで読みずらいことが多いが、目次のスタイルを見ると、編集に力をいれていそうな印象。そこで眺めてみることにした次第。

「序」を読むと、著者達のスタンスがわかって面白い。ほとんど団塊の世代前後だそうだ。若き日に読んだ「日本の考古学」全七巻がこの道を歩んだ切欠という人も少なくないらしい。要するに、脱皇国史観の書を読んで、爽快感を覚えた人達ということ。従って、イデオロギーが色濃い可能性も。とはいえ、今の時代、旧態依然たる姿勢で学問でもなかろうとは思うが。
それはそれとして、小生の興味は古墳の祭祀の意味。あれは一体なんなんだ感覚と言った方がよいか。はっきり言えば、それこそピラミッドのような威圧的構築物。どう考えても、日本の伝統である簡素で自然と一体化している感覚とは違いすぎる。どう考えるべきか知りたくなるではないか。
盗掘が多いらしいが、原型は保存されており、色々と想定できる筈。論点を整理すれば、実のある議論ができそうに思うが。

ということで、そんな視点で気になった箇所。・・・

祭祀研究者によれば、被葬者は神と認識されたことはなく、司祭者だったという。断定的。素人には、その証拠や論理は読めない。古墳では一回限りの葬送の儀があるだけだから、そこは祭場と見なすことはできないとの一点張り。
言葉の定義の問題ではなかろう。明らかに、その葬儀に膨大な労力を費やしており、当時としては格段に貴重な物品まで一緒に埋葬。埴輪の大量生産など、現代の工業生産でもえらい仕事量になる。そこまでしても、祭祀ではないならなんなのだろう。
一般祭祀とは違うというなら、常識的には、新宗教到来を意味すると思うが。そういうことかね。よくわからず。
どう見ても、死者の霊が怖いから閉じ込めたというのではなく、死者の力を誇示するようなモニュメントである。遺体に意味を与えている訳で、死者の霊は「山」に漂うという肉体軽視の古代信仰とは似て非なるものと言わざるを得まい。その辺りをどう考えるべきか、何も触れないのはどういうこと。なにせ、この巻は「古墳」を扱っているのだ。

一方、埴輪研究者の指摘は全く異なる。
墳頂の家型埴輪は祖霊の祭祀装置だと見ているのだ。そこには水も存在しており、独特の様式が存在するそうだ。
成る程そういうことか。古墳とはいわば一族の神の家。現存首長は祖霊が憑依した神ではなく、祖霊を守護する祭祀者ということになる。その祭祀の様式をヤマト政権が確立したと見る訳だ。
同一形式の古墳が広がったのは、王権と祖霊感や神観念を共有する豪族が一挙に増えたと解釈すべきとなる。古墳はイデオロギーそのものとも言えそう。
確かに、そう考えれば、目立つところに建造する意味も見えてくる。ヤマト型の祖霊信仰とヤマトのクニの繁栄が結びついていることは一目瞭然だからだ。

しかし、この「目立つところに建造」というのは素人考えらしい。古墳の立地に関する専門家の見方は180度違う。古墳は原野に作られたというのである。感覚の違いには驚かされる。
「山の辺の道」の南半分である、石上神宮から桜井駅まで、何回か散歩したことがある素人には納得いかぬ解説。その近辺は○○陵だらけだからだ。わざわざ、古代の街道沿いに目立つように構築したに違いないという印象しかない。なにせ、高台から周囲を俯瞰したいと思っても、古墳が邪魔で見通しが利かなかったりするのである。どう見ても、原野を切り拓いたというより、街道を通ると威容を感じさせるような場所を選んで人工小山を作ったとしか思えないのだが。
まさか、わざわざ原野を通る街道を作ったとは思えないし。
もう一つは水利。古墳の環濠を重視しない見方があるらしい。後付と考えるべきものだというのだが。
水利が悪い非生産地の立地と言いたいようだが、この見方もはなはだ疑問。現在の古墳の周囲は宅地化が進んでおり、昔の地形とは違うから、なんとも言い難いところはあるが、そんな筈はなかろう。
古墳時代の農業とは、低地は水田で、丘陵は畠。水利があるなら畠は水田化。それこそが富を生む根源。古墳の地域は、その気になれば、盛り土の逆を行えば、水田化が可能だったように映るが。なにせ、環濠が可能な場所が多いのだから。もちろん、段丘地形が無いなら、水を保つのは難しい訳で、そんな場所でも目立つ場所として好適なら古墳を作ったのでは。そこは農業生産も可能な筈である。
常識的に考えても、古墳主要部はできる限り水を遠ざける設計にせざるを得まい。温帯モンスーン気候で台風が来るから、洪水による破壊防止策は不可欠。

まあ、些細なこと。それが気になるのは、肝心要の議論はさっぱり進んでいないように映るから。
「鏡」の部分も、よくわからぬ。
「製作地や性格について議論が大きく分かれている鏡式は多い」とのこと。誰でも、そんなもんだろうと思うのではなかろうか。ところが、その一方で、「古墳出土鏡の分類、年代的位置付けの大枠が決まりつつある」とされると、素人にはどういうことか理解不能。意味がわからないモノを分類できるし、どのような出自か皆目検討もつかないが、作られた時期はわかると読んでしまうからだ。

結論。素人には、この手の本は手に余る。

(本) 古墳時代〈下〉 (講座日本の考古学) 広瀬 和雄 (編集), 和田 晴吾 (編集) 青木書店 (2012/06)


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