■■■■■ 2012.9.23 ■■■■■

  演歌嫌いが感じていること

電車内の週刊誌中吊り広告の見出し程度の情報しか持ち合わせていないが、演歌歌手の事務所騒動がそこここで発生していそう。
そろそろゴタゴタ発生の頃合と思っていたと言えば、憤慨される方も多かろうが、部外者から見れば当たり前。印象は極めて悪いが、方向転換が必要な時期であり、摩擦は避けられず、なんらかの形で矛盾解決を迫られるのは致し方あるまい。

相当前から、CDでは、演歌はマイナー市場でしかないからだ。
と言って、バロック音楽のように、端からニッチ的に市場を地道に形成してきたジャンルではなく、お金をかけるマーケティング手法で大儲けしてきた過去を持つ分野。それに慣れている固定ファンも存在しているから、いまさら再出発という訳にもなかなかいくまい。
と言うことは、レコード会社は、歌手事務所から新曲発表と広告宣伝注力の要請を常に受けている筈。しかし、それに乗ったりすれば儲からない。知らん顔をすれば対立しかねない。極めて厄介な事業と言うこと。企業家なら、従来の延長タイプの演歌事業を続けるより、衣替えした新演歌を試すとか脱演歌を進めたくなるのは自然な流れ。
一方、歌手の事務所にしてみれば、作られてしまったイメージを壊すことは避けたいだろうから、従来型事業の継続を図ることになる。要するに、CD発売は宣伝手段でしかなく、収益性など考えないとの姿勢がより明瞭になってくる。
こうなると、両者の溝は広がる一方。

これは致し方ない話。
演歌歌手業の経営は、演歌ショーと称されている興行に依存しているからだ。所謂、ドサまわりが事業の核となっていそうなのは、素人でもわかる話。なにせ、会場経費が少なくて済む上に、地元が宣伝までして集客に協力してくれるのだから、これほど有難いことはない。ストリートミュージッシャンが、演歌だけ特別扱いされていると語ったりするから、そんな文化政策が行き渡っているということかも。
その辺りが金銭的にどうなっているのかは、地方政治のボスが明かさない限りよくわからないが。どこの自治体にも巨大ホールがあり、遊ばせていると批判されたくないだろうから、手っ取り早いのは演歌招致で、それが習い性になってしまったのだろう。
しかし、今や、どの自治体も、食えないような給与しか出ない臨時公務員の大量雇用を進めている状況。文化政策におカネを浪費する訳にもいくまい。
そうなってしまえば、演歌を熱心に後押しするのはNHKとローカル民放くらいのものかも。今や、これがマーケティングの命綱。
ともあれ、演歌興行ビジネスに黄色信号が灯っている訳である。

小生は演歌は嫌いな口だから、悪い見方しかできないのかも知れぬが、このままでは、消え去っておかしくないジャンルに映る。
その理由は歴史と伝統を踏まえているとは思えないのに、そう強硬に主張し続けているからである。この手の言い回しは、大衆人気が非伝統音楽に移っていることへの不快感の表明そのもの。立場はさらに悪くなるだけである。

もともと、歴史と伝統とか、心の故郷といった話にしても、その土台は軟いものでしかないのだから、もう少し考えたらよさそうに思うが。演歌を聴かない層にとっては、心の故郷感などもともとゼロだからである。
どうしてか、一寸と考えて見た。

先ずは、テーマが余りにステレオタイプな点。
もちろん、それ自体が気に食わない訳ではない。花鳥風月でも感動は覚えるのだから。問題は、その対象が、生活実感と全く合っていない点。酒、女と涙、港・盛り場という定番モノが必ずと言ってよいほど登場してくるからである。もちろん、それを実感できる方々もいるだろうが、今の世の中ではマイナー中のマイナーとはいえまいか。一般の人がそんな生活に共感を覚えることは考えにくかろう。ご当地ソングにしても同じようなもので、民謡のように、風土感覚を呼び覚ますものにまで仕上がってはいないのである。

もう一つは好き好きでもあるが、音の問題。
ほとんどの場合は、濁音や堅い子音を恣意的に目立たせる発声。これがどうも耳につく。これを日本の伝統と主張されたりすれば、気に障るのは当たり前。日本語発音の美しさとは、単純な母音を沢山使い、無理な発声の子音を避けることだと見ているが、それとは真逆だからだ。美のセンスで伝統を踏襲しているとすれば、せいぜいが7・5調とは言えまいか。
もっとも、なかには柔らかい音を中心とした演歌もある。この場合は、日本の和歌の伝統を受け継ぐものと言えそう。説明だけではわかりずらいから、例として、小野小町の作品をあげておこう。
  花の色は うつりにけりな いたづらに
    わが身世にふる ながめせしまに
 (「づ」はduと発声し、「が」は鼻音にすると濁音感覚消滅。)
単語で言えば、さなえ(早苗)、しののめ(東雲)、はるさめ(春雨)、ひさめ(氷雨)といった風合いの音。

間違えてはこまるが、柔らかい音の歌が望ましいと主張している訳ではない。逆に、喉を絞るかのような無理矢理発声も歌としては悪くない。ただ、それには前提があろう。歌手が、自らの生活実感をベースとして自己主張するからこそ、意味があるのでは。喜怒哀楽感情を剥き出しにするハードな表現だからこそ、それを聞きたくなる人が出てくるもの。
しかし、演歌はその手の自己主張をえらく嫌っていそう。無理矢理情景にかこつけた情緒表現だけで、自己主張を避けるのが普通。ところが、演歌ファンは、それを心を込めて歌い上げていると主張するから、聞かされる方は違和感を覚えるのだ。内容はステレオタイプなものでしかないのに、そこからドラマを読み取れと要求されている感じがするからだ。そんな習慣を欠く人にとっては、かなり辛いものがある。


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