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■■■■■ 2014.8.5 ■■■■■


莫言伝を眺めて

2012年度ノーベル文学賞受賞者、莫言(1955年-)の評価は人によって大きく違う。言うまでもないが、協商の委員でもあり、まごうかたなき体制派だからだが。

もっとも、毛沢東の「延安文芸座談会での講話」を知る人からみれば、英雄話や、革命事績とは無縁な作品だから、路線的には反労農兵分子とされてもおかしくなかろうとなるが。
従って、本来的には中国共産党にとって受け入れがたい作家だが、言論の自由抑圧体制容認派だし、中華意識高揚にその存在は重宝するということなのだろう。
毛沢東は「百花斉放百家争鳴」で、反共産党派を表に出させ、一網打尽にするスターリン的手法を用いて大成功を収めた訳だが、似たような状況と言えるかも。胡耀邦の自由化も、裏の皇帝にしてみれば、似たようなものだった訳で。
ということで、両者の蜜月状態が安定していると見ない方がよかろう。

小生は、作者の故郷での抗日戦争時代を題材にした「赤い高粱(コーリャン)」の邦訳版を文庫で読んだことしかない。特段、感激した訳でもないので、それ以外に手を伸ばしたこともない。
読後感としてはパール・バックの「大地」を思い起こさせられただけだったからだ。

この作品では、日本軍の残虐さが描かれているが、程度の差こそあり、匪賊も負けじといった状況だし、役人、八路軍、国民党軍も非道そのもの。従って、空想と現実を習合させたお話と言えなくもないが、それこそが土着の民の見た現実と言ってよいだろう。
実際、ポルポトのクメール・ルージュの世界を考えれば、それは仮想話でもなんでもない。卑しき人々が生きている世界を、民の言葉でママ描いたに過ぎぬ。と言うか、作者は、民が生み出した荒々しいお話の語り部と化している訳だ。
そんな社会で生きる民は、日本流なら青草のように、山東なら赤いコーリャンのように、死んでいくことになる。語り部としては、それにいたく感動する訳である。

生い立ちを知ると、それも、わかる気がする。
キリスト者の「愛」を感じさせるパール・バックとはいささか違うのである。垂涎モノの3食餃子生活実現目指して文筆業に進んだというのだから。

日本では、中国の暗黒面は滅多に扱わないことにしているようだが、毛沢東主義者の行動は、ポルポトにひけをとるようなものではなかった。そのただなかで育ってきたのである。
60年代の莫言坊やは、日々、ほとんど裸。食べ物にも衣服にもこと欠く生活をしていたという。常識的には貧困の極致そのもの。ところが、社会的には、「世界一の幸福な国」とされていたのである。餓死者がいくらでようが、毛沢東主義が世界を救うと信じていたのである。奇っ怪な熱狂そのものだが、民がかんでいたから、そんなことがおきる訳である。

従って、この本では、ハンセン病患者に対する差別意識も丸出し。その程度の人品の作であることを隠そうともしない訳である。

だからこそ、この小説は画期的だといえる。
「農民の農民による農民のお話」だからだ。(ただ、出身は「富裕中農」であり、毛沢東の貧農独裁主義が力を発揮していた頃はカス扱いされた。それを世渡りテクニックで切り抜けた訳だ。それは現在でも言えそう。)

もともと、中国では、本を読むような知識階層は「君子」扱いであり、「小人」たる肉体労働者層とは違うのである。
両者の間には、越えがたい深い溝があるとされてきた。
  勞心者治人、勞力者治於人、
  治於人者食人、治人者食於人、
  天下之通義也。

    [孟子 縢文公上]

莫言は、その「小人」社会のドロドロとしたオドロオドロしい姿を描くことで、中国社会の本質を暴露したということになろうか。

こんな話を書いているのは、たまたま、以下の本に目を通したから。
  「野性的高粱:莫言」二十一世紀出版社 2013
    YEXING DE HONGGAOLIANG:MoYan zhuan  - Ye Kai zhu
  第一章 飢餓年代 ・・・,咀嚼的権力,身分的曖昧,食草的家族,歴史的暗示,・・・.
  第二章 求知年代 ・・・,虚瞞的教育,神奇的右派,恐怖的老師,・・・.
  第三章 出走年代 ・・・,好鉄也打釘,・・・.
  第四章 激情年代 ・・・,東北郷考古,内心的秘密.
  第五章 収穫年代 ・・・強盗的頌歌,歴史的鬼魅,時代造英雄,不死的父親,・・・.

小生には、中国語書籍を読む能力は無いが、漢字の文章だと、全体を見回すと、なんとなく、だいたいのことはわかってくる気がしてくる。おそらく、幻想に過ぎぬが。

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