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■■■■■ 2015.3.6 ■■■■■


イジメに対抗できぬものか

多摩川河川敷で、中学1年生が虐殺された。余りに悲惨で、ご冥福を祈るのみ。

「事件につながる兆候はいくつもあったとされる。どこかで周りの大人たちが気づき、救いの手を差し伸べていれば、悲劇は防げたかもしれない。」という気分はわからぬでもないが、簡単ではなかろう。

首都圏では、この中学生が住む区域と都内の1区が問題を抱えているとの話は昔からよく耳にしてきた。実態は全く知らないが、噂というだけではなさそう。
都会なのに、高等教育へ進む人の割合が低いからだ。つまり、生活に余裕が無い住民が多く、教育に無関心にならざるを得ない状況と見なされて来た訳である。
当該区民からすれば、偏見ということで、えらくご立腹されるだろうが、地域の実情を踏まえた対策を立てることが重要だと思う。理想論での対応は避けた方がよいのでは。

小生は、このような地域では、「皆と仲良く」方針が裏目に出かねないと危惧の念を抱くからでもある。
家庭に余裕があれば、「皆と仲良く」はそれなりの意味を持つが、もともと、かなりのクセモノ文化である。
と言うのは、この「皆」が何を意味するのか曖昧だからだ。
多くの場合、それは「仲間」と認定できる集団を意味する。逆に言えば、この集団外とはできるだけ係り合いなきようにすることで、親密感を醸成することが、「仲良く」の意味となりがち。
生活に余裕が無い場合、これがマイナスに働く可能性はかなり高い。「集団」のチョイスが僅少だからだ。それが、たとえまともな「集団」で無くても、それ以外の選択肢が欠落しているのである。

殺されかねないと感じても、集団から逃れることはできない。
と言って、学校、警察、自治体ができることは限られている。殺人行為に至らないだけで、似たような境遇に陥っている生徒は少なくないかも。

そう考えるのは、これは日本の風土に根差すものでもあるから。
その実情がよくわかるのが、SNSの利用の仕方。・・・様々な人々と交流できる優れた手段であり、本来なら、これを使って交流を広げることが可能な"筈"。しかし、実際は真逆では。
限られたメンバーからなる閉鎖的「集団」に、あたかも忠誠を誓うが如き交流生活が生まれているように見える。それこそ、SNSで日がな一日「皆と仲良く」生活を送っている人達も結構少なくないのでは。頻繁な交流を面倒と感じて手を抜くと、途端に、メンバー資格要件に欠けると見なされるからだ。

この流れ、下火になっていた、日本の古き文化の復活かも知れぬ。

女性の社会進出拡大の"癌"であるお局様文化と、群れて力を誇示するチンピラ文化だ。
両者の特徴は閉鎖性と内部イジメである。前者は、有能な人の足を引っ張ることに精を出すし、後者は、優しさを見せるタイプを徹底的に痛めつける。
第二次世界大戦中の、女子勤労動員での規律維持や、一丸となって戦うために内部制裁を日常的に行っていたと言われる帝国陸軍の文化を引き継いでいる可能性もありそう。

考えてみれば、小・中学校教育はこうした流れを止めるどころか、伝承してきたと言えるかも。なにせ、学校「一丸となって」動こう、という先生だらけなのだから。

イジメの悲劇を防ぎたかったら、腐敗集団から脱する勇気を与える教育を進めるべきではないか。それなくしては、イジメは防ぎ得まい。

(日経社説) 中1殺害は防げなかったか 2015/3/5付

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