表紙
目次

■■■■■ 2015.7.10 ■■■■■


「蜘蛛の糸」に感じる仏像論

小生が、芥川龍之介の知性の輝きを知ったのは「蜘蛛の糸」。インテリとしての生活から足を洗えないことの辛さを嘆いた書、「侏儒の言葉」ではない。

この作品のなにが凄いかと言えば、単純極まりない題材で、サラリと流して書いている点。そのお蔭で、基本テキストとして利用され、誰でも知る仏教説話になった訳である。オッと、そう書くと定番にさせた技量を褒めているように聞こえてしまうか。

驚いたのは、インテリを唸らせるべく、緻密に設計されている点。児童用の文芸誌創刊号掲載ではあるが、大人用の読み物になっているのである。

もっとも、それは当時のことで、現代は小学生用と言ってよいだろう。大人向けには不向きかも。
それがわかったのは、先日、たまたま眺めたNHK教育テレビ番組。
女性タレントの東京散策がテーマらしき企画。流石、Eテレと呼ぶだけのことはあるといった代物。
小生はタレントの名前さえ知らぬ門外漢だが、インパクトが強いお方だった。「純真無垢」をウリモノにしているのか、しゃべり方といい、その内容といい、いかにも幼児的という意味で。すぐにスイッチを切ろうかと思ったが、画面が、小学生へのインタビューシーンに変わったのでしばらく聞いていたのである。コレが圧巻。
小学生が余りにも幼稚な大人の出現にとまどっているように見えたから。どのように上手く対応するか考えながら、しっかりと大人の調子で答えているのである。シナリオに合わせているのではなさそうだから、これこそが現代の小学生の姿なのだろう。お蔭で、たっぷりと社会勉強させて頂いた。

それはさておき、「蜘蛛の糸」は普通はご教訓話とされている。
大人としては、子供に、地獄の底に落とされた悪人、陀多の考え方をどう思うか質問することで、教育効果を狙うことになる。それと同時に、大人の方も、色々と思い巡らす訳である。・・・他人のことなど全く考えずにただただ登ればよかったのだろうか、とか。あるいは、皆を救うためなら、はたしてどうしたらよいのだろうとの疑問も浮かぶ。

しかし、「侏儒の言葉」の世界に生きている龍之介流だと少々違うかも。・・・例えば、悪党が、蜘蛛を踏みつけ殺してしまう行為を思い止まったのは、はたして善行意識からだろうかと。蜘蛛だったからこそ命を助けたのかも。肉食を罪深いとする輩の命などどうでもよい。世の中的には、ゴミの欠片と見なされ、虫けらにも値しないとされても、肉食一途で生きる蜘蛛には強い同族意識を感じたからでは。非道を行く仲間の命を奪うことはできないとの信念が生まれかかった可能性も。これぞまさしく仏性、といった調子になる。

だが、竜之介のインテリ向けメッセージはそんなところにはない。
読み始めれば、すぐに気付かされる点があるからだ。

  ある日の事でございます。
  御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、
  独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

この記述には、明らかな間違いが含まれている。しかも、普通の大人なら有りえないような。・・・
極楽の蓮池にいらっしゃるお方とは、阿弥陀様である。ココは釈迦如来の地とは、遠く離れており、互いに交流するなどあり得ない。
つまり、ここでのお釈迦様とは釈迦牟尼を指していることになろう。どういう理由かわからぬが、釈迦牟尼が極楽浄土を実地見学している訳だ。だからこそ、蓮池から地獄の世界を興味深げに眺め回すのである。冷静沈着に、そこで、どんな人間がもがき苦しんでいるのか、と。

なかなか含蓄のある記述と言えよう。
などとわざわざ書いているのは、「仏像分岐分類の考え方」[→] をまとめたから。
それとどう繋がるかはそのうち別途。・・・簡単に言えば、日本は釈迦如来像と阿弥陀如来像だらけで、釈迦牟尼像を滅多に見ないということ。その理由を理解しているからこそ、龍之介は、阿弥陀如来に限りなく近いイメージのお釈迦様像を描いて見せたのである。

(C) 2015 RandDManagement.com    HOME  INDEX