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2004.10.18
 
 


煎茶道と抹茶道の差…

 博多大茶会の「煎茶席」には光風流、皇風流煎茶礼式、日本礼道小笠原流、藤蔭流の4流派が参加している。(1)

 素人には、流派の差はよくわからないが、こちらも、抹茶同様、多数の流派が存在している。
 全日本煎茶道連盟には38流派が参加している。(2)

 煎茶道も、抹茶道と同じく、禅宗を基盤としているが、祖は中国の黄檗山万福寺とされている。
 従って、日本では、宇治にある黄檗山万福寺が祖ということになる。
 この寺の開祖は隠元禅師である。時期は江戸初期だ。当然ながら、宋の文化が色濃く残り、禅の精神を強烈に訴求する抹茶の茶の湯とはかなり趣が違う。様々なものを取り入れた、明の文化の影響があるのは間違いない。

 隠元禅師は、どちらかといえば、茶というより、書で有名であるし、喫茶というより、生活スタイル全般での様式を追求したように見える。

 そのせいか、「煎茶中興の祖」である、売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)が、実質的に煎茶道の祖と見なされているようだ。

 「売茶翁」というと、仙台銘菓を思い出してしまいがちだが、元禄時代に、京都で、宇治茶の売茶を始めた人である。
 といっても、商売人ではなく、清貧の境遇で、幅広い趣味生活を追求した禅僧だったようだ。

 要するに、美味しい煎茶を飲みながら、文化論を語るという生活スタイルを確立した人なのである。文人趣味の極地を目指したと言えそうだ。この文化的生活が当時の人々の琴線に触れたのだろう。
 この時代でも、抹茶は、おそらく一部の人がたしなむ茶の湯に留まっていたに違いない。「茶禅一味」の茶の湯とは、実質的に上流階級相手の遊びと化していたのかもしれない。これに対して、清風を貫くことで、独自の境地を切開いた訳だ。

 ・・・ということなら、煎茶道とは、脱「禅」に意義がある。思想や宗教の衣を捨て去って、文化論を戦わす風土を作り上げたことに意義があるのではないだろうか。
 時は、煎茶が普及し始めた頃である。庶民までお茶を飲めるようになった時、飲めば誰にでもわかる、本当に美味しいお茶を提供し、煎茶を愛でながら、世俗を離れて、文化を語る場を設定したのだ。この場つくりこそが、売茶翁の目指した茶道だったと思う。

 抹茶と煎茶は、禅宗が根底にあるという意味では確かに同じである。広く文化芸術を愛するという点でも類似ではある。
 しかし、根本的な思想は違うような気がする。

 このように考えると、茶道として、両者をひとくくりにしない方がよいのではないかと思う。
  参考→ 「博多大茶会に想う 」 (2004年10月14日)

 → (2004年10月19日)
 --- 参照 ---
(1) http://kokubun.city.fukuoka.jp/jigyou/kaisai_daichakai.html
(2) http://www.senchado.com/ryuha.html


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