表紙
目次

2014.7.5

棚田の見方 (1)

高千穂町は高地盆地の稲作部族が好みそうな地ということで、そこには日本の棚田百選もあることだしと書いていて、現実の棚田が本当にそれを反映しているのか気になった。そこで、その辺りをまとめてみることにした。

棚田というと、小生は、すぐに姨捨山の「田毎の月」が頭に浮かぶ。
更科紀行を想いだして詠った、芭蕉の句(元禄2年)の印象が余りに強烈だからだ。もともとが姨捨山の月を見たくなり出立した旅でもある訳だし。
  元旦に 田毎の日こそ 恋しけれ
おや、記憶違いである。「田毎の月」ではなく「田毎の日」なのだ。
もっとも、よくよく考えてみれば、だからこそ、再び紀行に赴きたいとの想いが漂ってくる訳である。そこが、芭蕉好みの方々の共感を呼ぶ点でもあろう。

そうなると、「田毎の月」のプロモーターは芭蕉というよりは、広重か。
六十余州名所図会 信濃更科田毎付鏡臺山(嘉永6年) [→ NDLデジコレ] が、そのイメージを人々に植えつけたということだろう。もっとも、それは、千曲川と善光寺一帯が見渡せる地である故の観光人気に上手く乗ったということだと思われるが。

とは言え、「姨捨」の地は平安の頃から超有名だった模様。仏教一色だったから、姥捨て話が心に沁みて当然だろう。(確認していないが、確か今昔物語では、老人の知恵の凄さを指摘した天竺の話だったような気もするが確認はしていない。それが、枕草子に誰かの話として記載されていると記憶する。)
だが、この時代は田圃の水面に映る月影の話とは無縁で、あくまでも心が痛む抒情的シーンの方だった筈。
こんなところが、その心情を示しているのでは。
  あやしくも 慰めがたき 心かな
   姨捨山の 月も見なくに
    [小野小町 続古今]
  わが心 なぐさめかねつ 更科や
   姨捨山に 照る月を見て
    [詠み人不詳 古今]

どう考えても、棚田など存在せず、棄老の場所である山林と痩せた畑地しかなかったのではなかろうか。だからこそ、山を明るく照らす月に心悲しさがつのり、一度捨てた姥を連れ戻す決心をするという状況に納得できるのだと思うが。
そして、同時にそれは例外的ということにも気付く訳である。締め切った室内で棄老を悔いながら朝まで我慢するしかないのである。そして、森閑とする寂しい風景のなか、月の光だけが降り注ぐ情景が目に浮かんでくることになる。

従って、田毎の月はどこかチグハグな概念と言えなくもない。
農作物の生産性が低い地域だからこそ生まれた姥捨て習慣な筈なのに、そこに生産性が高い稲作水田農業が重なってくるからだ。
まあ、その辺りは、時代の流れということで、気にしてはいけないということか。
おそらく、この辺りに棚田ができたのは、江戸幕府の全国統治がかなり進んでから。もちろん、その頃には姥捨は昔話化してしまっていたろう。

実はこんな話をするのは、棚田には様々なものがあるのに、十把一絡げで考えてしまうのはどうかと思ったから。

歴史のスパンで見れば、棚田は大昔のものもあれば、極く最近作られたものもある。稲作にとって別に珍しい田圃でもないのである。
美しく整った沢山の棚田ということなら、そうそうあるものではなかろうが、それは美的感覚に左右されるし、単に段々になっている田圃という観点なら、当たり前のことではなかろうか。稲作地帯の人達の常識はどうなのかわからないが、平面化したタンボとは現代農耕地を意味するのでは。畔を減らし、整地が隅々まで進むとそうなってしまうだけのこと。ただ、それは、広い平野部で通用するが、外れれば未だにもとのまま。
東京周辺の丘陵地帯など、狭苦しい土地に無理して作ったような田圃だらけ。フラット化する意味などほとんどなかろうし、形状も滅茶苦茶なままだが、そんなものだろう。しかし、そんな状況こそが稲作の原点では。

言うまでもないが、それは日本の稲作だけでなく、どこにでも通用する話だと思う。
美麗に作り上げられた棚田を「日本の」原風景として崇める方もいらっしゃるようだが、小生はそう見ない。

─・─ 次回に続く ─・─


 文化論の目次へ>>>    表紙へ>>>
(C) 2014 RandDManagement.com