■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[論理性]■■■ 単なる漢文著述巧者が、漢字のみでの倭文文字表記化を試すこと自体、まずあり得ないからで、この気付きの発端はこの両書以外にあり得ない以上、そう考えるしかあるまい。 但し、こう考える場合、少々注意が必要なので、そこらについて書いておこう。 現代社会では、論理性無き主張はカルト的思い込みに映るので、無視されることが多いが、それはたまたま社会風土がそうなっているだけのこと。真理を知るには論理性(科学的思惟活動)重視が当然と考える社会に生きているからだが、それは時間軸的には極めて例外的現象。(ただ、"論理を隠れ蓑にした主張をするな。"と、日本の代表的新聞が公式に発信する位だから、日本の社会は、必ずしもそうなっているとは言えない。) 儒教国家の場合、論理の整合性に煩わされることは無い。 結論に合わせて、都合の良い理屈を見つければ事足りる。現代の眼から見れば、そんなことがある筈がなかろうと思いがちなので、そうとは思えぬという気分になるかも知れぬが。・・・ これは儒教の独自性という訳ではない。創造主あるいは創世期の存在を規定しない宗教感覚だと、自然にそうなってしまうだけのこと。要するに、世界は、生まれた時から脈絡なく動いて変化して来たし、今後もそれは変らない、との認識にならざるを得ないのである。これは現実主義そのものでもあり、儒教国なら、天子独裁-官僚統治による社会の安定を図るために、状況に合わせて都合良く方針を変えて行くことこそが信条そのものになる。ある意味、実利一本鎗。儒教国の"理屈"とは、真理追求とは無縁で、結論に合わせた官僚的説明様式以上ではない。 実利的とは生活実感をママ反映しただけの理念なき信条で動くことでもあるから、神への祈願といっても、それなりの価値あるものを特別な姿勢を示しながら捧げる行為と同義となる。神とは創造主ではないから、奉納行為への見返りを要求する権利が生まれることになる。他宗教での、神への畏敬とか尊崇とはかなり異なった感覚と見て間違いない。(神は何のために自分をお造りになったとか、世界をどの様な秩序で創成されたのだろうかといった思索に陥ることなどあり得ない。そこらの論理を考えることはほとんど無いと見てよいだろう。) ・・・こうした観点で眺めると、「爾雅」は官僚レベル層向けの実用書であると断言できよう。地位確保に不可欠たる詩作に役に立つ字書として編纂されているに過ぎないからだ。当然ながら、そこに整然とした論理を持ち込む必要は無い。 しかし、だからこそ、儒教国で生きていくための必須な書と化したと言えよう。この書を活用できることこそが儒教に帰依していることの証左にもなる訳だし。 ところが、儒教国での字書の最高峰の地位にある「說文解字」は、同じ字書ジャンルでありながら、全く異なる方針で編纂されている。分析対象が字義と字体の違いという地平をはるかに越えた、対立的な書と見なしてもよい程。 どう見ても、「說文解字」は漢字世界の秩序を提起した思想書。実用性を恣意的に軽視しているとしか思えない。 圧巻は、文字とは王朝の官僚によって整然と作られた作品と看破している点。 そもそも15巻という大部でありながら、巻題が無いのだから、特異な編纂方針である。冒頭から末尾迄、一貫した流れで編纂されているとの風情が醸し出されているので、便宜的に巻名を付けることも躊躇せざるを得ず、極めて使いずらい。540グループに分類して字形連繋の視点で"論理的に"並べてあり、各グループは独立しており、所属文字が重複することも無い(僅少だが、流石に、例外文字は存在するだろう。もちろん、所属決定が難しい文字は項目から外している。)と豪語しているので、検索便利な実用書として再編する気がおこらないようにできているとも言えよう。 ⏩続 (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |