■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[小篆の位置付け]■■■
「說文解字」の採り上げた字体は、始皇帝命で成立した小篆。創作者は宰相李斯。独自書体を許さず、厳格な字体での統一を実現。
e.g. 建為郎中令 書奏事 事下 建讀之 曰:
    「誤書!<馬>者與尾當五 今乃四 不足一 上譴死矣!」
    甚惶恐 其為謹慎 雖他皆如是  [「史記」萬石張叔列傳第四十三 萬石]

画期的ではあるものの、他国の異体文字を消滅させたことばかりに目を向けるべきではなかろう。
この施策では、字義公定化と文章用法確立も同時に追求された筈だから。

「爾雅」の記載とは、字義混乱状態が解消されなかったことを示していることにもなる訳で。・・・
    [各国表記文字]A B C・・・=基本字義文字【М】
e.g.-1 @釋詁 弘 廓 宏 溥 介 純 夏 幠 厖 墳 嘏 丕 奕 洪 誕 戎 駿 假 京 碩 濯 訏 宇 穹 壬 路 淫 甫 景 廢 壯 冢 簡 菿 昄 晊 將 業 蓆…【大】

↓@「方言」
  敦 豐 厖 𡗦 憮 般 嘏 奕 戎 京 奘 將…【大】
    凡物之大𧳖:豐 厖 深之大

  東齊海岱之間:𡗦 or 憮 宋魯陳衞之間:嘏 or 戎
    秦晉之間凡物壯大:嘏 or 夏 秦晉之間 凡人之大:奘 or 壯
      燕之北鄙齊楚之郊:京 or 將

  ・・・皆古今語 初別國不相往來之言
    今或同 而 舊書雅記 故 俗語不失其方 而 後人不知
      故 爲之作釋

e.g.-2 @釋詁 𢜮 憐 惠…【愛】
↓@「方言」
 憮 㤿 憐 牟…【愛】
 韓鄭…憮 晉衞…㤿 汝潁之間…憐 宋魯之間…牟 (or 憐…通語)
 愛=㥴/慈/憮 𢜮=撫 憐=哀 惠=恩 @「說文解字」
     秦 v.s. 楚の違いが記載されていることが多いように映る。

もし、勝手気ままな表記や字義が横行している状態で、諸子百家が活動していたら、始皇帝でなくともなんとか統一できないものかと考えるに違いない。

このことは、武力支配下においた国での小篆の強制的使用を強引に推進した秦王朝期が、<漢字>実用化時点ということになろう。

そうだとすれば、小篆が、閉鎖的な一部のコミュニティでのみでしか通用していない時代の文字を、ママ踏襲しているか否かはなんとも言い難し。
(甲骨文字は、状況から見て、最初の標準化文字だろう。しかし、この言語は、殷(夷)・周(羌)の国語(官僚使用の言葉)とは異なっていた可能性が高い。つまり、甲骨文字とは炎帝と黄帝の戦いが決着し、融合した両者の後裔が用いるようになった祭祀用言葉を文字化したもの。)
その様な状況で、始皇帝は、秦の言語を基本とする公定文字の小篆を創作させ、すべての言葉に使用させることにしたと考えるべきだろう。すでに標準化されている甲骨文字がベースになっていて当たり前だが、当然ながら官僚の英知を効かせるのだから、ママ踏襲している筈がない。
あくまでも統治上実利があるからの強制的標準化。当然ながら、大きさとデザイン的類似性での統一のみならず、字形の記号的明示性も重視している筈。小篆文字を眺めた時、公定字義とは異なる意味をイメージしない様に配慮した可能性が高かろう。(字形について、極めて厳格な姿勢を貫いたにもかかわらず、結局のところ異字体が多く残ってしまったのは、厳格性より、字体の装飾性や表意感を好んだ地域が多かったことを意味していそう。)

常識で考えれば、甲骨からの字義を引き継ぐことより、言葉⇔文字の間違いない対応と、語彙選別や文章化規則の確定を最優先した筈。

ともあれ、漢王朝は、この小篆体系を100%ママ受け継いだことになる。意味ある新たな動きはほとんど無かったと言ってもよいのでは。せいぜいのところ、記載方法に合わせた簡略字体の隷書を用いる様にした位では。
  
     

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