■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[12ha釋水]■■■
せっかくだから、釋水で特別扱いを受けている詩の全体を眺めておこう。・・・
  匏有苦葉 濟有深涉 深則 淺則揭
  有瀰濟盈 有鷕雉鳴 濟盈不濡軓 雉鳴求其牡
  雝雝鳴鴈 旭日始旦 士如歸妻 迨冰未泮
  招招舟子 人涉卬否 人涉卬否 卬須我友
         [「詩經」國風 邶風 匏有苦葉]
≪水≫濟 深 涉 淺 [n.a.][水⊂出〜][諸矦鄉射之宮 西南爲水・・・]
≪仌≫[水堅]  ≪皿≫[滿器]
[n.a.]call ≪隹≫[雝𪆫][有十四種・・・] ≪鳥≫[䳘]
歸妻
→cf.  卬/卭⇒≪匕≫𠨐[望 欲有所庶及]  ≪須≫[面毛]
すでに述べた様に、この程度の情報などあってもなくてもさして影響は無い。先ずはとりあえず自己流解釈。感覚的にしっくり来ないのに、辞書にただただ忠実に解釈することだけは避けることが肝要。間違いなど気にせずに、なんとなく筋が見えるようになっていればそれで十分。
例えば、こんな風に。
瓢箪の苦葉は浮きになるとはいえ、
 濟水の渡河は深い箇所が有って大事。
  余りに深ければ、腰まで浸かって、渉ろう。
  淺いことがわかったら、衣をたくしあげて、渉ろう。

渡し場に水が溢れて来たが、
 雌雉が聲高に鳴いている。
  濟水は深く、車が水浸しにならずに渡れる訳もない。
  それでも、雄を求めて雌が鳴く。
鴈は飛びながらゆったりと鳴いて、
 明々と朝日が立ち上がる。
  士たるもの妻を娶る気があるなら、
  氷が解けて水が流れる前がその時。
渡し場の舟屋が舟が出るぞと呼び集め始めたので、
 人々が渡ろうと動くが、我はそれをしない。
  人々が渡ろうと動こうとも、我はここに留まる。
  我が友が来るのだから。


ここから、何を語っているのか想定することになる。
どう考えても、頭から尻まで、すべてが暗喩。作者や詩作背景の情報を欠いている状態で、この手の作品の解釈に、正解などあろう筈がなかろう。つまり、下品か上品か、あっけらかんか道徳論か、自由自在。大御所の意向を伺って、"正解"を規定する以外に確定はほぼ不可能。
・・・「詩経」はだからこそ政治的に重要な位置を占める。王朝官僚が、古代詩の解釈を決めることになるからだ。
(もちろん、公的解釈は何時でも改訂可能。儒教国家はそのために厚い学者層を抱えざるを得ない。言うまでもないが、その本質は政治的ご都合主義で、実態は権威主義以上ではない。それが大いに好まれる社会ということ。言うまでもないが、そこらを語ることは危険極まりない。従って、精神的自由を追求する知識人は表現の工夫に精を出すことになる。)

と云うことで、この詩は以下の様に解釈してみた。民衆の歌であるのは間違いないとされている様なので、もともとは、頭から始まって、下賤なお笑いを引き起こす手の作品だったことになろうが、まさかそれを書く訳にもいかない。・・・
(精神的自由を愛する知識人[勿論、官僚]は文芸的サロンの活動を好むのが普通。そこでは匏有苦葉を逐一男女間の睦会いの歌として解釈したりする訳だ。当たり前だが、謹厳実直な顔をして語ることで、満座大笑い。)

(いよいよ、水ぬるむ。)
  苦くて喰えない葉もとうに枯れてしまい、
  瓢箪は熟したママ。使えば浮きになるだろう。
濟水を過河するといっても、渡口は既に水深し。
 (情が)深ければ、浮きを腰につけて渉るのがよかろう。
 (情が)浅ければ、腰までの衣を持ち挙げて渉るしかないが。

濟水は完璧に水が満ちて茫然の呈。
 岸辺の草叢では雌の山雉が鳴いている。
  (伴侶選びの雄の鳴き声が普通なのに、
   雌の御相手はどうしたのだろう。)
水が漲っていて、入れば車軸迄水に浸かってしまいそう。
  これでは、とても到達できそうにない。
 野の雉は、相変わらず、雄を求めて鳴いている。
  その声が耳につく。

空には、大雁が飛び、
  音を揃えた鳴き声が聞こえて来る。
黎明を過ぎ、朝の日の輝きが訪れた。
男子なら妻を娶らねばとの思いを新たにする。
河辺に氷が在るうちに、急いで婚礼をあげねば、と。

舟夫が手招きして呼びかけている。
他の人は渡河しなければならぬだろうが、
  我はおことわり。
絶対におことわり。
我は、将に、恋人を待っている真最中なのだ。


後世の官僚社会の感覚で解釈するのも悪くなかろう。・・・渡河して、官僚第一歩を踏み出せる嬉しさもさることながら、宗族の期待に応えて立身出世するためには、要件でもある妻を娶らねばとの思いが過ぎる。その期限は迫っているし。
恋もさることながら、これからの官僚生命を左右する一大決断でもあり、身が引き締まる思い。

ついでながら、一般的解釈なるものが存在しているのかはよくわからないが、<若者よ!もし妻を娶るなら、氷の未だ解けざるにおよべ。>が核となっているという見方を当然としている論調が多いのは確か。そうだとしても、何を言わんとしているかで、見方は割れるだろう。
厄介なのは、秦討伐@前559年の際の叔孫豹の賦との情報も無視できない点。意味は全く異なると言えないでもない。[左丘明@春秋:「国語」巻第五魯語下 諸侯伐秦魯人以莒人先濟]
もちろん、地場民衆の伝承恋愛譚とか、宴での女声詠唱、等々、政治的立場に合わせた説明も楽々。あげればきりがなかろう。
ただ、冒頭の<匏有苦葉⇔濟有深涉>の対句的表現の解説が今一歩な場合、どうしても胡散臭さがつきまとう。
   
     

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