■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[14a釋木]■■■ A=B的な、読み替え文字を示すだけの書のなかでは、例外的に<A=aA+bA+cA+dA+・・・>と11もの名称をただただ並べているからだ。詩作に役立つとも思えず、該当語彙に出くわしたとて、この記載によってどうして他の棗でないのか検討することができる位で、ほとんど何の価値もなかろう。 従って、出回っている様々な解説書がココをどう書いているのだろうかと。ついつい思い巡らしてしまう。 これが博物学的な書であれば、11種の註は極めて重要で、編纂者の意図を読み解く鍵だったりしかねない。そこにはメッセージが籠められている可能性が高いので、注目箇所ということ。 しかし、「爾雅」には、そうした思想性はほとんど感じられないから、註の意義はほとんどないと思う。 11種類の名称をわざわざ並べてあるものの、常識的には、ナツメの品種分類と呼べる代物ではない。食用としている果実の、大きさ・形状・色見・種(核)の状況・味の特徴がわかる表現がされているだけで、現代で云えば五万とある園芸的"変種"の通俗呼称。・・・ナツメは大陸全土(高地以外だが、そこらには別種のナツメが存在。)に生えている上に、環境で果実の性情はいくらでも変わるから、この観点で分類したなら数十に達してしまう。当たり前だが、その様な古代名称を読み解くのは無理。 しかし、科-属-種とか変種・亜種といった概念は、現代でも社会的にはほとんど理解されていないのだから、11種がズラズラ並ぶこと自体はおかしなことではない。と言って、さらに多くの種があることを知らない筈もなかろうから、ナツメは特別な木で、A=Bでは表現できないという表明なのだろうか。 (特別視された果実だった理由は定かではないが、現代的には中国デーツといったところか。飲酒が規制されていると、果実食の愉しみは格段のものとなり、比類なき美味しさの極上デーツは王朝独占だったのと同様ということか。) ・・・こうした見方ができるかは、結構重要。 よくある、"知識不足による誤謬"という手の解説を鵜呑みせずに、自分の頭で考えることができるようになれるかの分かれ道でもあるからだ。(例えば、「說文解字」は母集団を明確に規定した上で、字形からの推定で字義推定を行っている。甲骨を参考にしないのは正当。しかも、ミクロな個別分析を避け、統一的な視点で判定している訳で、その結果を無知的誤謬とみなすのは考えもの。) 儒教国家の特質を考慮すると、この棗の様な記述があったなら、熟考をお勧めしたい。(例えれば、この時代は、地動説だったので、こうした記述になっているとの解説をママ受け入れる様なものだからだ。国家公定信仰に反するか否かで決まっているだけの話で、当時は無知だったと見なすのはどうかと思う。現代人など無知の際たるもので、農学博士ならナツメの分類が分かるだろうと、質問したりする様なもの。お話にならない程低レベルの思考だが本人はそう思っていない。これが現実。) 中華帝国の知的トップレベルは、所謂、どこにでも居る受験勉強的能才とは違い、豊富な知識と上手な分析を第一義にしていない。そんなことができるのは当たり前で、その地平で凡人的能才たちと競争する気など無い。従って、編纂方針を考えながら読む必要があろう。草木蟲獸魚の生態についても、明らかに実態と異なっている記載があって、通俗的見方に従っている時など、要注意。 編者として肯定しているとは限らないからだ。・・・政治思想的に、その生態が比喩的に用いられているなら、正しい見方は云々と書くほど間抜けなことはないし、よく知られている話をわざわざ記載するとすれば、何か目的がある。自由精神を好むインテリのサロンでのみ、そこらについて話が弾むことになる。国家運営上儒教的統治は不可欠と考えても、サロンは脱儒教とならざるを得ない。 言うまでもないが、「說文解字」では、樹木である以上≪木≫部文字が樹木としてのナツメになる。 棗は≪朿≫部文字で、羊棗とある。<A=aA>になっているが、こちらは品種的な名称だから、高地や帝国圏外に別種があることを知っていたのかも。 ⏩続 (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |