■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[16d釋魚]■■■ 鱀是鱁@釋魚 時 寔…【是】@釋詁 是…【則】@釋言 是刈 是濩…【濩 煮之】 之子者…【是子】@釋訓 是禷 是禡…【師祭】@釋天 東陵阠 南陵息愼 西陵威夷 中陵朱滕 北陵西隃 鴈門是@釋地 ・・・但し、「古事記」読み的感覚で上記用例に接しているので、ここから先は、ナンダカナに映るかも。そこらはご容赦あれ。 「爾雅」は基本的に、"A=B"(A is B. /AはBです。)表記。 といっても、"="部分の文字は不要で、"AB"だけでこと足りる。それが漢語の根本ルール。 しかし、それだけに「爾雅」では頭から往生させられる。漢文教育を受けていると気付かないが、トンデモ言語であることに気付く一瞬。 記載が"ABCDE・・・"では文末とんと不明だからだ。 (そのため、文末を歴然化させるのが、"AB也"。しかし、どういう場合。誤解を与えかねないから必要になるのかはさっぱりわからず。当該文の筆者の感覚で判断するしかない。倭語文法的には、<"="文>形式と見なすための助詞と解釈することも可能。) 構造言語らしさはあるものの、"A=B"が自明ではないという訳のわからぬさ。・・・"A=BC"あるいは"AB=C"とか、はたまた"AB=CD"かも知れないのだから。 (Aなのか、A-Bかは、文脈で判断するしかなく、これを避けるには、"A者"なる書き方が結構好まれることになる。文法がある倭語的感覚からすれば、"者"を付け足す習慣は冗長化でしかなく、邪魔者以外の何者でもないだろうが、倭語文法的には、主格の助詞と解釈することも可能。) それでも、字書と知って読むから、この程度の迷いで済むが、文字に品詞分別という概念が決定的に欠落しているので、ABCDEの品詞は皆目わからずとくる。 従って、"A(主語)=B(補語)"とは限らず、"A(主語)+B(動詞)+C(形容詞)+D(目的語)"であってもおかしくない。こんな言語が成り立つのは驚異的と感じるのが、フツーと違うか。 要するに、構造言語の体裁をとっているものの、事実上、文法が存在していないと言う事。 倭語には、明らかに品詞分別の鉄則がある。主語という概念は無いものの、それに代わる、主題提示と主述部からなる、ほぼ完成形とも言える優れた文法がある。「文法」が全く見えてこない、この手の言語とは根源的に折り合いが悪い。 にもかかわらず、太安万侶は漢字を利用すると、倭文表記が可能と踏んだのである。常識を超えた挑戦に映るが、それが可能であることの気付きを与えたのが、おそらく、稗田阿礼。 その切っ掛けとなったのが、漢文に於ける "是"の存在ではなかろうか。 "A=B"は、"AB"で済む筈にもかかわらず、わざわざ"A是B"と記載。一体、ナンナンダと感じるのが、フツーの受け止め方と思うが、言葉とはそういうものとして状況に従うことが当たり前とされているのが現実。 しかしながら、この手の表現は、口誦叙事詩ではよくあること。ここぞというシーンでは、飾り言葉や背景音でもないのに、余計な言葉が挟まるもの。ストーリー上、その言葉にたいした意味は無いが、語り部としては入れざるを得ない一語。(こうした言葉の役割や意味を探るのは難しいようだ。その系譜を引いていそうな言葉は平安期の古文では珍しくないが、多種あるにもかかわらず、差異不明であるから。) ・・・倭の叙事詩でも、この手の単語があり、挿入箇所も明確に決まっていておかしくない。しかし、稗田阿礼がアドリブ的に他の用語を用いることもあることを明かした上で、文字表記にあたってはこの言葉はカットしてかまわぬと語った可能性がある。 この指摘で、漢字による倭語表記に踏み込む決断ができたと睨んでいるのだが。 ⏩続 (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |