■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[16m釋魚]■■■
子不語"怪力乱神"[「論語」述而第七]と言うことは遍く知られている上、「爾雅」対象読者は儒教型官僚とその予備軍と云うに、亀と鱉に怪ありと、矢鱈に目立つ形で記載されている。

2首、3首や多首は、そこだけ見れば確かに異形ではあるものの、想像をベースとした創造形態としてはなんら驚くものではない。
剥製あるいは木乃伊でその手のトーテム偶像が制作されていてもなんらおかしなことではない。ずっと後世とはいえ、11面や1,000手の観音像が信仰対象になるのだから。

翼があっても飛ばない山鳥と、同程度の異端でしかないということになろう。
 山原秧雞ヤンバルクイナ[山原水鶏]@南島Okinawa rail

しかし、脚の数についてはそうはいかない。

もちろん、無足に違和感を覚えることになるものの、蚯蚓や蛇が存在しているので、空を飛ぶことで移動できる鳥ならそうかも知れぬとなる。しかし。理屈で納得できる訳ではなく、極彩色の剥製が持ち込まれていたからと考えるべき。どういう訳か、脚が除去されていたことを意味する。

多足も、蜈蚣やゲジゲジが存在してはいるものの、現存生物を見ての納得感を得られないとそう簡単に納得できる訳ではない。
亀で云えば、ビルマムツアシガメ。
現代的には、足ではない部分が加わっているだけ。異端であって怪ではない。

ところが<鱉三足 能 龜三足>となると、一線を越えている。
これは正真正銘の怪。
十龜とは無関係らしいし。

「山海經」中山經記載でもあるから猶更。・・・
■7 ▲苦=首▲休輿〜▲大 16神は人面豕身。+人面3首
 三足龜
■11 ▲荊=首▲翼望〜▲几 山神は人首神。
 三足鼈・・・枝尾
もっとも、現代人だと、すぐに解釈可能。
脚/肢ということではなく、あくまでも足であり、この辺りだけで見られる珍しい3爪足を意味しているだけのこと、と見なして一件落着となる。(枝尾は雄性器の形態表現として妥当だし。)

ところが、それはあっけなく阻まれる。訳のわからぬ解釈がなされているからだ。
  郭璞云:三足鱉曰能 另一說鯀死後化為黃能 即三足鱉

"能"とは"熊"の類縁であり、龜と関係するとは思えない。なんらかの譚あってしかるべしなのは間違いない。
そうでもなければ、この箇所は「爾雅」から削除されていた筈だし。

ともあれ、ヒトの感覚としては、動物は先に向かって進む生き物であって、体躯には必ず前後がある訳で、左右対称の大原則がある。(海星の如く無方向性動物も存在しているが、そもそも頭や首が無い。)
一本足は異常ではあれ、尾的位置なら、この原則を踏襲していることになる。さもなくば、一本喪失か一本隠匿の場合ありという現実認識があるので、容認できる。しかし、3本足はこの対称構造を突き崩す。これは怪となる。

非対称体躯の種は生存不可能と見ていた訳で、鳥なら比翼として1対の生物として生きるしかあるまいと解釈するしかない。魚は寄り目による非対称が存在するが、認めていた訳ではなさそう。比翼的観念で現実を直視しないことにしていたようだ。
  

     

 (C) 2025 RandDManagement.com  →HOME