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■■■ 「古事記」解釈 [2021.8.23] ■■■
[234] 飛鳥清原大宮天皇讃漢詩読解【附】
序文の漢詩📖格調高き天武賛(漢文)解釈を試みたが、実に凝った作品である。
何と言っても、対句構造に矢鱈に拘っているところが面白い。単純な天皇賛歌だらけの時代だったろうから、一風変わった嗜好ということになろう。倭の風土的には嫌われるやり方だから、あえてそれで行くことにしたのだろう。
もっとも、現代の読み手からすれば、形式的にしか映らないから、冗長でただただ長いという印象しか与えないので、本文と違ってほとんど無視される存在ではなかろうか。・・・

曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。
濳龍體元。
洊雷應期。
聞夢歌 而 想纂業。
投夜水 而 知承基。  📖【1】

天時未臻 蟬蛻 於 南山
人事共給 虎步 於 東国  📖【2】
皇輿忽駕。
凌渡山川。
六師雷震。
三軍電逝。
杖矛擧威。
猛士烟起。
絳旗耀兵。
凶徒瓦解。
未移浹辰。
氣沴自清。 📖【3】
乃。
放牛息馬。ト悌歸 於 華夏。
卷旌戢戈。儛詠停 於 都邑。
歳次大梁。月踵俠鍾。
清原大宮。昇即天位。
道軼軒后。
コ跨周王。
握乾符 而 ハ六合。
得天統 而 包八荒。
乘二氣 之 正。
齊五行 之 序。
設神理 以 奬俗。
敷英風 以 弘國。
重加。
智海浩瀚。 潭探上古。
心鏡煒煌。 明覩先代。 📖【4】

どうして、こうなるかと言えば、始皇帝が頭にあるからだろう。・・・
[真父]呂不韋↓パトロン
[実父]子楚/荘襄王(前250-前247年)
├┘
└┬△n.a.[出身地から"趙姫"]
[秦国王(前247-前221年)]嬴政⇒初代皇帝(前221-前220年)
その特徴は、・・・
 親政(呂不韋追放)&変法(法家 商鞅⇒李斯)
  中央官制(文書管理)
  人頭税+郡県制
  首都制度(大規模宮殿+官庁+豪族・富豪移転先住居)
  度量衡+貨幣統一+隷書体文字標準化
  巡幸(自賛刻石建造)
 徹底した富国強兵政策
  大規模干拓
  交通網(車軌標準化)
  遠交近攻(韓 趙 魏 楚 燕 斉は滅亡)+万里の長城
  兵力増強(騎馬戦術/信賞必罰)+兵器没収
 神仙思想(焚書・坑儒+寿陵造営)

これを考えると、太安万侶の見方は的確と言えよう。

震旦と本朝の国家的規模は比較にならない差があること自体は、唐の膨張で、東シナ海〜朝鮮半島の影響力を失った現実に直面したばかりであるから、知らない筈はない。
しかし、北側7か国の小国から中華帝国化を実現した始皇帝の存在が示すように、なにが起きても不思議ではない。(例えば、後世であるが、中華帝国史の栄光の時代である、元と清は、言語や文化が全く異なるモンゴルとツングースの外来王朝もある。)
従って、天武天皇は始皇帝と肩を並べる力量ありと見なすことが、必ずしも大言壮語に当たる訳ではない。天皇を天子と見なす以上、そうした見方を否定することは、論理的矛盾でもあるし。

そもそも、始皇帝にとってヒトの出自などどうでもよい話。すべての判断基準は自分に従うか否かと、活用できるかに尽きる。この考えを突き詰めたからこそ、一代で帝国を築き上げることができたのである。
ちなみに、「今昔物語集」の"震旦 国史"のイの一番は[巻六#_1"震旦秦始皇時天竺僧渡語"だ。独裁者始皇帝の方針を諌める仏教など言語道断であることがわかるが、宗族第一主義の儒教などさらに邪魔な存在以外の何モノでもなかろう。合理的判断で、宗族のためになるなら、儒者が天命と見なせば皇帝打倒に即時立ち上がること必定だから、焚書坑儒は当然の姿勢。📖

ある意味、太安万侶は天武天皇の「古事記」編纂命の真意を見抜いたということでもあろう。

始皇帝とは違って、天皇は、それこそ乾符を握って誕生するような境遇にある。そして、天統は、皇統譜で位置付けられており、臣はその外周の分派として位置付けられており、尊卑の観念と生まれによる身分制は厳然として存在するものの、支配層はなんらかの形ですべて皇統譜に繋がることになる。(渡来人は例外であるものの、絶対少数の特別扱いに過ぎない。外積化も進む。)

明らかに、ここらに、倭の国家としての一体性をつくりあげる素がある訳で、震旦や天竺とは違うということ。(国書の史書のうち、系譜だけが欠片さえ残存していないのは、ある意味当然。あくまでも、概念であり、細かな記載はこまるのである。)

震旦では王朝正統性誇示のために国史は不可欠だが、天竺では叙事詩さえあれば"歴史"など不要であることに、早くに気付いていたのであろう。天皇毎の事績集を豊富化しても、縁戚の臣とその関係以外にはたいした意味はないこともわかっていたからこその「古事記」編纂方針とも言えよう。

上記の天武天皇讃漢詩にしても、おそらくかなり練った構成の筈で、なにげない2字が、天武天皇あるいは他の天皇のなんらかの逸話を彷彿させるための表現と見てよかろう。そこまで調べる気力は無いが。

おそらく、漢籍から2字化した熟語を持ってきて奇妙な漢詩風の讃を詠むのは官僚として当たり前の行為だったのだろう。つまり、それを理解できる能力を身に付けることが高官の必要条件だったことになろう。天武天皇の場合は、天文の知識も持っていたようだから、漢籍の知識も相当なレベルと考えてよさそうだ。女帝もその点ではひけを取らなかったと見てよさそう。📖元明天皇は武則天を目指したか
例えば、以下は天皇が元ネタをご存じということを前提として書かれている訳で。ある意味、それが愉しいのであろう。・・・
伏惟 皇帝陛下
連柯并穗之瑞 史不絶書
列烽重譯之貢 府無空月
【出典】「文選」:顔延之"三月三日曲水詩序"@唐代初期
赬茎素毳 并柯共穗之瑞 史不絶書
棧山航海 逾沙軼漠之貢 府無虛月


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