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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.28] ■■■
[331]日本語文法の祖は太安万侶
枕詞自体に特別興味を持っている訳ではないが、日本語のルーツを知りたいのなら検討は必須と考えてのこと。意味不詳の上、なんのために付けるのかわからないが、ある単語の「枕」だとされている。このような状態で、古代語の文法でもなかろうと思うが、そんあことを言うのは失礼なことなのだろう。
さらに付け加えれば、係り結びという文法用語もナニガナニヤラ。使われる理由は不明であり、有無で意味が異なるのかも判然としない。にもかかわらず、<は も ぞ なむ や か こそ>の暗記を強いられる。
小生からすれば、とんでもない学問に映るが、それが嬉しい人が多数派の社会である以上、黙って従わざるを得ない。

そんな状態であるからこそ、白川漢字学の意義が光り輝くのだ。素人が読んでも、牽強付会そのものと感じるところは少なくなく、「口」についてさえ疑義無しには読めない代物であるが、それで十分なのだ。入手できるネタを分析整理しただけの概念を欠く現象論では無く、漢字の概念を示しているからである。現象論で細かな反論をしたところで、何の意味も無い。

こんな話まで持ち出すのは、「古事記」の"歌謡から引いて来た歌"こそが、日本語の原点と考えるからである。
太安万侶が、日本語表記法の創始者であるのは自明だが、それは日本語文法を生み出したということでもあることになる。

白川漢字学を知ればすぐにわかると思われるが、「古事記」は文字化可能な「日本語」が生まれた時点を推測する書でもあるからだ。
倭語が文字化されなかった理由は、文字がなかったとか、記録習慣がなかったというような話ではなく、統一王権が存在していなかっただけのこと、神権と王権を繋ぎ、帝国化の道を進もうとすれば、祭祀に係わるものとして文字が使われることになる、というのが白川漢字学の本質論ということ。

そんなことを考えていると、「古事記」は日本語文法でもあるのは間違いなし、と思えてくる。
読みずらく、簡単に解釈し難いのは、ココに起因している可能性もあろう。

・・・と、御託を述べてしまったが、要するに、枕詞は提示詞と考えたらどうだろうということ。

枕詞は使われなくなってしまったが、その精神環境はママ引き継がれており、日本語の特徴は、ここにあるという気がするからでもある。
つまり、話し手と、その相手の共通の話題の場を設定するための詞。歌謡では、この言葉があるから、皆が情緒を共有することになって、場が一気に盛り上がるのである。
「古事記」の歌は、枕詞だらけだが、それを示したかったのと違うか。

もちろん、話題がはっきりしている場合もあり、提示詞不要なことも多いだろう。歌謡ではなく、書き物にしてしまえば、背景を知って読み始めることが多いから、冗長なだけで、枕詞は敬遠されていくことになろう。
しかし、「古事記」成立時点では、書き物は稀であるから、提示詞だらけだったと考えてもよいだろう。「古事記」所収の歌は、歌謡から引いて来たのだろうから、枕詞が沢山でて来て当然ということになろう。(数えたことは無いが、およそ100とか。)
付け加えるなら、主語ではないのに、主格を示す助詞が使われることが多いが、それは、この精神的伝統が受け継がれていると言えなくもない。

この枕詞こそ、日本語文法を考える上で、鍵を握っているのでは。

その理由は単純。
日本語文法の肝は、文節という"概念"だからだ。

なにげなく使う学校文法用語に過ぎぬが、単語の順列で成り立っているような英語や中国語では説明しがたい用語と違うか。
日本語は基本ベタ書き文章であり、主語-述語構造も無かったりする。これを節に分けるという説明がなされており、概念的には実は曖昧と言わざるを得ないからだ。分析すると、そのようになっているというだけでは。

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