↑ トップ頁へ

2005.11.28
 
 


ポップ科学化反対…

 たまたま目にした雑誌の表紙に記載されていたタイトルが“国民の意識を換起せよ”とあったので、つい読んでしまった。(1)

 正直言って、その内容には、がっかりした。
 「専門家集団と社会認識の乖離」との指摘はその通りだが、問題は社会にあるとの見方だからである。

 この著者は、“科学レテラシーを欠く国民”と断定しているが、実は、科学レテラシーを欠くのは専門家集団の指導的立場の方々ではないのか。
 科学レテラシー専門家を育成すべきとの主張だが、そんな方策で解決できるとは思えない。

 日本の科学“重視”主義者の考えていることは、どう見ても、科学の“ポップ”化である。一般大衆に科学に馴染んでもらえば、国民の科学意識を高めることができるとの発想自体が、時代錯誤だと思うのだが。

 日本の一般大衆は、科学“重視”主義者とは違い、産業技術や、実生活に係る科学には、相当関心を払っている。
 健康や美容の科学がこれほど日常生活に結びついてる国などなかろう。関心が無くなっている訳ではないのだ。

 こうした一般感覚からずれた日本型「科学」には興味を感じないだけのことである。欧米とは違い、博学的な科学に入れ込む人が少ないだけのことだ。
 このような実情を無視して、一般大衆に、“つまらぬ”科学知識を普及させようとの試みに意味があるだろうか。
  → 「ピント外れの科学離れ防止策 」 (2004年4月20日)

 そもそも、日本の“科学的発見に関する関心度は15ヵ国中最低”というデータを切り札にして、説得性を高めたいらしいが、ここが一番の曲者である。

 引用データの“生”を見ると実に面白いことがわかる。

 まずは調査だが、統計的にはしっかりしたものだ。対象は、一般国民3,000人。(2)
 ここでの、15ヵ国比較とは、10問の質問に対する正答率である。

 それでは、どんな質問か見てみよう。

 例えば、“放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全だ”・・・正答率84%、誤答率3%

 おそろしく非科学的で政治色濃厚な質問である。
 こんなもので、科学に対する関心度を見ている調査であることに注意を払うべきである。

 そもそも、「放射能」でどうやって牛乳を汚染させるのか。
 是非、教えて欲しいものである。放射線をあてると牛乳は汚染されるのだろうか?
 どう考えても、科学の素人が投げかける質問としか思えない。

 要するに、チェルノブイリ事故問題の深刻性を知っているか、調べたいのではないのか。
 それなら、聞きたいことを正面からきけばよい。政治色を誤魔化すための科学としか言いようがない質問に映る。

 汚染に関する科学的知識を調べるなら、質問は自ずと違ってくる筈だ。
 “放射性物質が混入している牛乳は人間に危険だ”とすべきだろう。
 とたんに正答は難しくなろう。どこまで混入すれば危険なのかという議論になる。

 なにをもって汚染というのか考えるのも科学の役割である。
 「乳酸菌」が牛乳に入れば、汚染されたと見なすこともできるが、醗酵乳生産が始まったとも言えるだろう。
 こうした議論から新しい発見が導かれる可能性があることを理解することが重要だと思う。

 この調査は、そうしたセンスからは程遠い。
 一般大衆を科学的発想から遠ざけるための質問ではないかという感じさえする。

 科学的知識を問いたいなら、もっと単純な質問になるだろう。

 もっとも、“放射性物質は摂氏100度で放射性を失う”といった質問を考える人はいないと思うが。

 別な質問を見てみよう。今度は、正答率が低かった質問である。

 “ごく初期の人類は恐竜と同時代に生きていた”・・・正答率40%、誤答率35%

 はっきり言って、どんな回答でもかまわないのではなかろうか。

 映画「ジュラシックパーク」を見慣れていれば、“○”と答えるかもしれない。
 科学的発想を生かすなら、これでも結構である。
 正答率は低いが、日本人は恐竜そのものには興味をもっていると思う。専門家とは、知りたい知識が違うのである。

 重要なのは、どうして“○”と見なすのかを頭を使って考えることである。科学における正解とは、いくつか提起された仮説のなかで、蓋然性が高そうなものでしかない。従って、新しい発見によって正解は変わる。
 このことを理解することが、なににもまして重要だが、それを嫌う人がいるようだ。

 “国民の意識を換起せよ”論者は、その典型だと思う。

 そういえば、もう一つ引用されている話がある。

 子供に、天動説が広まっている非常識さを指摘している。

 確かに非常識ではあるが、太陽がどこから昇り、どこに沈むか見る機会が無い子供が多いのだから、それも致し方あるまい。今や、このような科学知識がたいした価値がなくなったとも言える。
 宗教がものの見方を強制していた時代、それに抗した地動説は意味があった。しかし、現代ではたいした意味がなくなってきたというに過ぎない。
 にもかかわらず、政治力を活用して科学者がものの見方を強制する。これでは、かつての天動説学者と同じ姿勢ではないか。
 一般の人達が、常識を欠く子供が増えたと主張するならわかるが、科学者が指摘するような問題ではあるまい。
  → 「天動説の背景 」 (2004年9月24日)

 科学者は誤解しているようだ。

 天文分野自体の人気が落ちているとは限らない。
 家庭用のプラネタリウムは売れているらしいし、エレクトロニクス技術を取り入れた高価な個人用望遠鏡は売れ筋商品になりつつあると言う。
 「科学の常識」を暗記させようとする“天文学”が嫌われているとしか思えないではないか。

 ビジネスマンなら、この状況を見れば、当然の結果だと思う。
 変えるべきは、ただただ暗記を強制させようとする科学者の態度と考える。

 ところが、今、進んでいるのは、これとは全く逆である。楽しく暗記できる方法を工夫しようというのである。

 仮説を思いつき、実証に結びつける、科学的思考の楽しさが語れる人がいないから、科学離れが進んでいるとは考えないのだ。

 --- 参照 ---
(1) 松井孝典「戦略ある科学技術立国に向け 国民の意識を換起せよ」Wedge 2005年11月号 5〜6頁
(2) 「科学技術に関する意識調査-2001年2〜3月調査-」文部科学省 科学技術政策研究所 2002年1月
  http://www.nistep.go.jp/achiev/abs/jpn/rep072j/rep072aj.html
(3) 日本天文学会要望書「次代をになう子どもに豊かな科学的素養を」 2005年7月
  http://www.asj.or.jp/news/050722.html


 教育の危機の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2005 RandDManagement.com