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■■■■■ 2015.2.20 ■■■■■


GDP成長率報道を巡って

人気評論家が、「2月17日朝刊の、内閣府のGDP一時速報値(2014年10-12月期)を伝える一面記事が面白かった」と書いておられるのに気付いた。
   「未だ1%成長路線では」[2015.2.17]

少々気になったので書き留めておくことにした。

当該記事は、この2本。・・・
A紙:「鈍い消費 景気足踏み GDP年率2.2%増 10〜12月期」
Y紙:「GDP緩やか回復 3期ぶりプラス デフレ脱却兆し」

この手の統計発表の解説は日経を読むのが一番では。常に、コンパクトにまとまっているし、ポイントを押さえた解説に徹している。それに、誤解を生みそうな場合は、必ず、説明が加わるので素人には有り難い。
ただ、統計発表が重複する日だと、すべてを突っ込むので、文章が長すぎる。まあ、こればかりは致し方ないが。

日経で大まかなところを理解してから、FT、WSJ、等の関連記事を眺めるとどのような見方が生まれているのかわかるので、俄然面白くなる。(A紙 v.s. Y紙の違いを見て面白がるのとは根本的に違う。)
つまり上記の新聞記事を読む意味は無いということ。

A紙も、Y紙も、どのような統計数字が出ようが、最初から評価は決まっているようなもの。それぞれの読者層(否定派と肯定派)に合わせた報道を行うだけなので、さっぱり面白くない。小生は、そんなものに目を通す気にはならぬ。
ただ、だからこそ、そのような新聞を読みたくなる層が存在する訳だ。残念ながら小生はそこには入っていないが。
そんなことは、スポーツ紙で考えればわかるだろう。昨晩テレビで観戦したにもかかわらず、スポーツ紙朝刊を通勤途中の駅で、わざわざ購入する人は少なくない。勝ちゲームの報道を眺めるのが楽しいのである。その手の読み方をしたい人には、A紙やY紙は外せまい。
もちろん、スポーツ紙同様に、新聞社の体質もそれぞれ違う。A紙は記者が優秀、Y紙は紙面がまともということだそうな。誘導能力に優れたモノ書きが多い新聞社と、政府の志向を実直に伝えるだけの新聞社ということだろうか。

まあ、マスコミに限らず、評論を商売としている人達は、自分の顧客が喜ぶようなお話に徹するのは当たり前。それがビジネスというもの。
ただ、余りにも過ぎると、流石に飽きられる。従って、適度な揺らぎと冗談でそれを防ぐ方が多そう。と言うか、小生など、そこにしか興味は無いが。

但し、これとは全く違う、マスコミあるいは、ミニコミ御用達のカルト型の商売人も存在する。
よく目につくのは、衣替えした、かつてのマルクス経済学者風の先生達。それに、そのような政治屋を嫌う素振りをするだけで、同じ穴の貉的な人達も少なくない。例えば「戦争は悪」と言うだけで、それ以外何もないナンダカネの人も結構多い。小生には、ご託宣だけで、なんの内容も無く、知的頽廃に映るが、それだからこそ人気を博すというのが日本の現実。この手の人達には正直うんざり。
しかし、そういった人達が幅を利かせる社会なのである。

考えなくて済むのが大好きな層が世の中の多数派だから、その感覚を擽ることができさえすれば、評論は楽勝のビジネス。そんなものを読まされるのは大いに不愉快。

オッと、そんなことを言いたかった訳ではない。気になったのは、実はこの一言。・・・
A紙も、Y紙も、「どちらもポジショントークが入っている。では、どの辺に真実があるかというと、両者の中央より」だとのこと。ややY紙側に近づいたところに真実があることが多いと言うのだ。

小生は、こうした感性的吐露は、百害あって一理なしと見なす。冷戦時代の発想でしかないからだ。ご本人にはその自覚は無さそうだが。

こうしたものの見方とは、左右の主張のバランスを上手くとれれば、結構イイゼというセンスに基づくもの。
確かに、"過去を眺めれば"、そのような観点で動けたことが、幸運を呼び込んだのは間違い無い。

つまり、反体制を叫ぶサヨク運動は、体制側にとっても有り難いものだったということ。

例でご説明した方がよいか。・・・
古くは、石油転換期の、炭鉱労働者守れというサヨクの動き。今もって、それを褒め称える人達がいそうだ。
要するに、とてつもない高給の"危険作業"の労働者の既得権益維持運動を、資本家の暴虐許すなという動きと位置付けたのである。石油転換許すまじということ。こんな時代錯誤の主張を繰り広げる組織に未來がある筈がなかろう。
一方、その流れを、労働者の頑張り賞賛に結び付け、企業競争力向上を図ったのが自民党政権である。企業内労働組合の要求に応えることで、経済発展に結びつけることに成功した訳だ。今、老人が年金や生活保護で食べていけるのは、そのお蔭である。
言うまでもないが、野党内にも、その政策のメリットを理解していた人々がいたから可能だったのである。そんな場合、両勢力が主張する丁度中間点辺りを「実像」と見るのは悪くない。
しかし、そんな時代はもう終わったのでは。

ついでに、もう一つ付け加えておこうか。
冷戦環境下では、反アメリカ帝国主義運動の盛り上がりは、政府にとって、そう悪いことでもなかった。
それによって、安上がりの防衛実現ができたからだ。だからこそ、経済発展を謳歌できたとも言えよう。

「体制 v.s. 反体制」的なレトリックで上手く切り盛りすれば繁栄可能というのが冷戦時代だったのである。
今や、その感覚が通用しない時代に突入。その現実を忘れるとエライこと。

両極端の中間がまあ真実では、という主張は冷戦構造下では意義があったが、その時代が終わっても同じ見方を続けるというのは、危険極まりない話。今や、先を見通すことが求められているのに、安直に、だいたい中間が真実だろうとの発想ほど時代感覚から遠いものはなかろう。知的腐敗と言っても過言ではない。
これは、曖昧な表現で主張をぼかす手とは全く違う。直截的な言い回しでなくても、読む方の知的レベルが高ければ、曖昧表現にしたところで何を指摘しているのかは読み取れる。しかし、異なる見方の中間に真実ありというのは駄目である。本質を抉るどころか、本質から目をそらす工夫をしているようなものだからだ。

(切欠となったエコノミストのHP)
吉崎達彦:かんべえの不規則発言<2月17日>(火)@溜池通信

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