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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.5] ■■■
[433] 千佛図像の流れ
突然気付いたのだが、「今昔物語集」編纂者はこの漢詩を知っていたのではなかろうか。
   「戲禮經老僧」 白居易[772-846年]
  香火一爐燈一盞,白頭夜禮佛名經。
  何年飲著聲聞酒,直到如今醉未醒。


いかにもインテリが詠みそうな詩である。言うまでもないが、佛名經とは、基本、名前がズラズラ並ぶだけ。こんなお経を読んでどうするの、ということ。
しかし、それはインテリの発想。現実には人気があったのである。だからこそ、この経典は廃れることなく残ってきたのである。

ここで言う「佛名經」は特定の経典名なのかは定かではないが、よく目にする経典名としては「三千佛名經」があげられる。おそらく、三世ということで、本質的には「千佛名經」であろう。
この経典と表裏一体なのが、千佛図像。
その話が収載されている。逐語訳文なので、見てすぐに意味がわかる、原典の方を引用しておこう。・・・
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
     📖「三寶感應要略」引用集 📖推定「三寶感應要略」下巻引用
  <11-30 像>
   《15-20弥陀仏》
  [巻六#28]震旦興善寺含照礼千仏語
  ⇒「三寶感應要略」上31釋含照圖寫千佛像感應
     (出寺記)

 唐興善寺釋含照。發願圖千佛像。
 纔寫七佛像。不知九百九十三佛威儀手印。
 精誠祈請。流泣悔過。
 夢見九百九十三佛現木葉。歡喜圖寫。
 流布傳世矣。

寺だが、隋文帝が582年建立した大興善寺@長安のことか。

巨大寺院だから、千佛像の図写を行おうとする僧がいるのはなんの驚きもなかろう。
その時、お手本がなく、印相がわからぬというのだから、およそお粗末な話。だが、その善行に応えて霊験が顕れ、図像を知ることができたというだけのこと。
白楽天的感覚なら、無視しそうな感応譚とは言えまいか。

しかし、「酉陽雑俎」の著者なら、他の話も加えて一話にしてもおかしくないかも。
そう考えると、「今昔物語集」編纂者も似た気分で収載に踏み切った可能性があろう。
要するに、ドメスティックな発想を嫌っている人だと、この話は少々気になる筈なのだ。

現代でも、良く知られる千仏像と言えば、敦煌莫高窟千佛洞の壁画。どのくらい種類があるのか知らないが、壁画の定番。柏孜克里克千佛洞、克孜爾千佛洞もあり、言うまでもなく、古いものはソグド系。それらが長安や洛陽に持ち込まれたのである。

どうしても、この伝来に注目してしまいがちだが、それに固執すると、実は、インターナショナル感覚を失ってしまうのである。

「酉陽雑俎」の著者はソグドの友人がおり、天竺僧とも懇意だったので、そこらをよく理解していたが、一般には、結構、勘違いしがち。
隋朝〜初唐期には、文字通り中華帝国が樹立され、仏教のインターナショナル性を重んじた動きが奔流化。仏教の流れはソグド→中華帝国ではなく、中華帝国→ソグドになったのである。
胡人の仏教は、あくまでも古代の息吹を伝えるものであって、それはエスニック的な位置付けでしかない。
本朝が、震旦からの渡来文献に熱中したのと同じことが、ソグドでも発生したと見てよいだろう。
敦煌莫高窟も装いを新たにしたことになる。

何故に、こんな話が"發願圖千佛像"と関係するかといえば、威儀手印が仏毎に設定されていそうな状況だから。
ソグドのもともとの千仏図像は画一的な筈。名称が仏名経に対応しているだけに過ぎない。それが唐代になると、細かく決まって多種多様になるのである。

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