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■■■ 「古事記」解釈 [2021.8.31] ■■■
[242]プレ道教の不死実現信仰はかなり特異
太安万侶の道教観を考えてみたが📖、書いてみると、真意を伝えるのはかなり難しいことがわかる。
それは、道教の定義ができかねるからでもある。曖昧というより、ナンデモ入れ込むことが可能な宗教なので、解説を読んでもボーダーラインがさっぱりわからないと言った方が当たっていそう。

そのため、様々なイメージが生まれてしまうのは避けがたい。
だからといって、表立って"滅茶苦茶"とも言えないから、曖昧な概念で済ます以外にない。それが続くと、自分の持っている道教イメージを一般的な通念と考えがち。
ところが、たまたま、そのイメージと大きく異なる説明に出くわしたりすることもある。そうなると、異端者の言動とみなしたり、目から鱗と感じ入ったりすることになりかねない。
小生は、このような頭の使い方は避けたいと考えるクチ。

そこで、追加的に少し書いておくことにした。

「古事記」序文は、日本は道教国と見なしているようなもの。ところが、本文を読めば、どう見ても非道教国。
この見方での、"道教"とは、宗教的概念というか、教義ができあがっている状況での話。つまり、太平道あるいは五斗米道といった教団樹立後にあたる。しかし、それ以前は道教はなかったとしてよいのか、と言われるとこまってしまう。
・・・つまらぬ思弁的議論をしたいのではない。道教の本質は何かを語るなら、ここが肝要なところ。
特に、「古事記」を読む場合、"プレ道教"の信仰は何か、ご自分の頭で考えておいた方がよい。・・・ここで熟慮していれば、「古事記」理解は格段に深まること間違い無しということ。

小生は、その信仰の核を神人信仰と見た。俗な用語では"仙人"とされているが、久米仙人譚が知られているため誤解を生み易いので注意が必要。あくまでも地上世界に住む人間であるが、天上の神の世界にも昇れるという存在。(「山海経」で言えば、海外南経の小人の【神人】が該当するが、黒色で不老不死の【不死の民】も類縁と言えよう。)📖
太安万侶はそこらを理解していたと言うか、倭に、"プレ道教"が天孫降臨期にすでに伝来していることに気付いたのである。
大山津見~は、娘の、石長比賣と木花之佐久夜毘賣に、多くの机代之物をつけて天津日高日子番能邇邇藝能命に奉出したが、醜姉は返されてしまった。ところがそれは宇氣比の貢。風雨があろうと、恒に石の如く常に堅く不動になる筈だった。
 故是以至于今 天皇命等之
御命不長也。

つまり、八角墳時代の、唐朝の道先仏後政策時代に合わせたかの如き、神祇の"道教"化とは無関係に、倭には古代から"プレ道教"の神人の不老不死観念が入り込んでいたのである。
ところが、序文の描く道教礼賛的状況とは違って、天孫は反仙聖だった。短命であろうが、岩のような頑丈さを求めることはしなかったのだ。
と言って、仙聖を毛嫌いした訳ではなく、以後も山岩信仰は重視され続ける。倭の独特な信仰とされるが、そこには原始道教的センスが持込まれていると言えなくもない訳だ。

この辺りは結構重要な見方。

と言うのは、道教は中華帝国の民俗的信仰の寄せ集めであるが、その核は不老不死願望に応える呪術と言えなくもないからだ。

この不老不死願望だが、生物に組み込まれているようなもの。従って、それに応える信仰はおそらく五万とあったろう。
しかし、現実を見れば、肉体が永続する訳など有り得ないから、肉体と霊(あるいは魂)を別な存在とみなしし、肉体は滅びても、魂には永遠性ありとの思想に行き付くのが普通。そこから宗教らしくなって行くのだと思う。・・・肉体の不滅は有り得ないが、魂は、天国あるいは浄土に迎え入れて頂けば、不死同等な境遇に行き付くと説くのである。
この場合、遺骸放置、火葬、風葬、鳥葬の風土だと、遺骸に意味がないと考えることが多いが、土葬を基本とする場合は、肉体の復活≒肉体不滅の思想が根底にあることが多い。自称無神論のソビエト組織にしても、祖の遺骸を永久保存し、それを信仰対象にする位で、遺骸の扱いでその信仰の本質が見えてきたりするもの。

・・・話がついつい散漫になってしまったが、"プレ道教"の不老不死実現は、中華帝国独特の信仰であることに注意を払う必要があろう。

要するに、普通、信仰は魂の永遠性について云々するもの。ところが、"プレ道教"では、徹底した肉体の持続性に関心が払われる。結果、不老不死の呪術を核とした宗教が生まれたということ。
そのような宗教が確立できたのは、王権がその流れを支持たからと見てよかろう。
  燕 昭王
  斉 威王
  秦 始皇帝
  漢 武帝


太安万侶は、天武天皇はこの系譜にあたると書いた訳で、それも究極に当たる 真人=“成仙”した人 であると見なしたに等しい。
  始皇 曰:吾慕真人,自謂"真人",不稱朕。
  後因指統一天下的所謂真命天子。 
[「史記」始皇本紀]

<コメント>
神人・聖人・真人は「荘子」が記述した概念とされている。
この書は、玄宗皇帝が"南華真経"と呼んでいるし、一般に道教と言えば老荘なので、「荘子」は道教の基本経典ということになっている。"無為自然"を説く上に、"逍遙遊"で生きるべしと主張する書との解説が一般的である。しかしながら、冒頭の有名譚からしてどう解釈すべきか迷わされる位で、はたしてそのような書としてよいかはなんとも言い難しである。(尚、外篇は、後世の偽書と見なされている。)
宗教はほとんどの場合、魂という概念を持ち出すが、道教は肉体不滅、不死可能との観念が出発点であるが、「荘子」も同じとするのは考え物である。
神人・聖人・真人とは魂の擬人化のようにも思えるからだ。不死に意味を与えている訳ではなく、死に意味なしとの主張を展開していると考える方が自然では。死後再生するとの考え方が強そうだし、輪廻観とは無縁だが、ある意味、精神的自由を求める、仏教の死生観の方に近そうにも思える。
教団宗教には合いそうにない書であり、サロンの哲学談笑から生まれた書ではなかろうか。「酉陽雑俎」の著者は仏教徒だが、荘子の精神を受け継いでいるのは本人もわかっている筈で、儒教国の精神統制下で官僚として生きねばならない知識人の道教の書と見るとよいのでは。

神人・聖人・真人はこのように記載されている。・・・
內篇逍遙遊第一
至人無己,神人無功,聖人無名。 ・・・
曰:「藐姑射之山,有神人居焉,肌膚若冰雪,淖約若處子。
   不食五穀,吸風飲露。
   乘雲氣,御飛龍,而遊乎四海之外。
   其神凝,使物不疵癘而年穀熟。
   吾以是狂而不信也。」

內篇齊物論第二
王倪曰:「至人神矣!・・・
內篇大宗師第六
且有真人而後有真知。何謂真人?
古之真人,不逆寡,不雄成,不謨士。
若然者,過而弗悔,當而不自得也。若然者,登高不慄,入水不濡,入火不熱。是知之能登假於道者也若此。
古之真人,其寢不夢,其覺無憂,其食不甘,其息深深。
真人之息以踵,衆人之息以喉。屈服者,其嗌言若哇; 其耆欲深者,其天機淺。
古之真人,不知説生,不知惡死; 其出不欣,其入不距; 翛然而往,翛然而來而已矣。
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語曰:「偉哉造化,又將奚以汝為,將奚以汝適?
    以汝為鼠肝乎?以汝為蟲臂乎?」


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